納得する言説とはなんなのか

最近見かけたツイートに深く納得するものがありました。

これに深く納得してしまう時点で、ああ、俺って今なんかモヤってるんだなぁ、と思いますが、それはそれとしてこの納得感は私の(不幸なw)境遇だけから来ているわけはない。これはなんなのだろうと考えてしまいました。

 

普遍的な何かを自分が感じているのか、でもそれって自分にとっての普遍性であって、普遍性ってもっとユニバーサルな世界でも通じるような力(力ではないか…真珠の輝きのような、タレントというか)なのではなかろうか、とも思うわけです。つまり、私の納得感というのは、私自身の人生に根ざした私だけの器を充足させるようなもの、という気がしてならんわけです。

 

とすると、結局「私」の話になってしまうのですが、私が当初考えていたほど「私」というのは狭くない、もっと広いものなのかもしれない。少なくとも境遇ではなく、人生全般の経験をベースに納得感を探らなければならない、ただしそれは世間の一般論ではなくて、しょせん自分だけの世界。ただそれが、実はすごく広いんじゃないか、という話です。

 

さて、私の納得感を考えると、キーとなる考え方は「その「場」でもっとも弱い立場の人間であったとして、自分がどう感じるか」というものです。私自身は、常にその見方を手放さないようにしています。

そのポイントからいうと、上記ツイートは(一般的には)弱い立場にフォーカスを当てた俯瞰であって、まずもってその時点で観点としての納得感はあります。そしてその内容については、よく見る光景を見事に表現している、という一点について100パー同意、くらいの納得感があります。

 

他の言説を見ていて、観点は違和感ないが意見が違うという場合と、そもそもなぜこんな見方をするのかという場合は確かにあり、上記ポイントからもそれは考えられるわけですね。

あと、これ以外にも「読む価値ない」「ゴミ」「こんなレイシストは◯◯」とかもあるわけですが、それはさておき。

主に納得感は何を重要視した簡単なのか、その意見の内容、というところから醸成されているところはある、と思います。それ以外にもあるとは思うものの、別のサンプルを用いた分析が必要かなと思います。

 

今回の話で何を言いたかったのか…、一応暫定的な結論は出ましたが、多分途中の自分とはみたいなところが関係ないけど一番書いておきたかったことな気がしますね。