勇気と覚悟、リーダーによる書

酒井穣さんの本はよく読みます。

勝手に、人生の先輩というか、師匠というか、ヒーローというか、この時代を照らして生きる方向を指し示してくれる存在として、尊敬しています。

会ったこともない、本を読んだことしかないはずなのですが、その本で語っている誠実さ、勇気と覚悟に毎度心を打たれているのです。

なんちゅうか、ロールモデルと言ってしまうと畏れ多いというか…、まぁそんな感じで仰ぎ見ている方です。

 

その酒井さんが新刊を出されまして、タイトルは「自己啓発をやめて哲学をはじめよう」というものです。

 

自己啓発をやめて哲学をはじめよう

自己啓発をやめて哲学をはじめよう

 

 

一気読みでした。

 

今回も誠実で、勇気と覚悟を強く感じさせる本でした。これはもう本を読んでいただければと思います。

それにしても何が酒井さんの本をこれほど魅力あるものにしているのか、それが自分には不思議ではあります。

 

でも、心の中ではなんとなく理由はわかっていて、それを言葉にするのはその気持ちに相応しくない、という感じはあるのです。

なにか物事に耽る時に散歩する道、聴いてしまう音楽、思い出す景色、そういうものを語ることに躊躇いを覚えるのと同じような感じなのかもしれないですね。

 

ともあれ、この素晴らしい本についてはたくさんの人に読んでいただきたい、と願っております。

サイクルの終焉

レアル・ マドリーがノックアウトステージ1回戦でアヤックスに惨敗…、 そうですね、まさに惨敗しました。 いろいろな分析がされていますし、 バルサスタイルの源流ともいうべきアヤックスによって連覇を止め られたことに歴史的な意味を見出す俯瞰的な論考もありました。
とはいえ目の前で起こったことを見たときに感じるのは、 ひとつひとつの局面ではそれほど大きく劣っていたわけではないのに、少しずつ一歩足りないという状況が重なり、スコア上の大敗がもたらされたという事実が示す「サイクルの終焉」の残酷さです。 残酷なまでにはっきりと数字に出てしまう( ときには目に見えている実情よりもはるかにはっきりと) フットボールというのは、 ある種の人間には感知しえない世界の真実を映し出すものなのかも しれないなぁと思ったりもします。
戦術的なことはまた戸田和幸氏による解説がメディアに出てくるはずですが…、 パッと見た感じで言うと決定的な局面が攻守ともによく発生していたので、ここ3年ほど盤石であったレアル・ マドリーの中盤がその力を活かせるような戦術になっていないのだろうなと、単純に思いました。 3人で構成されるマドリーの中盤に対して、 アヤックスの前か横かの選手が入ってきて数的優位を作り攻撃のチャンスを作っていたのかなぁという感じです。 通常のマドリーだと、セルヒオ・ラモスは前にも横にも広くポジションとるのでそういうアクションでバランスをとっていたはずですが、 彼がいなかったのは大きかったと思います( ドキュメンタリーの撮影していたという噂ですが)。
ともあれ、 結果が示しているのは戦術云々ではなく現メンバではヨーロッパの王座をとることはできなくなった、組織として衰えてしまった、 ということです。その面から言うと、クリスティアーノロナウドジダンがいなくなったというのは、 非常に大きかったんだなと、後知恵では感じてしまいます。
特にロナウドは「自分の重要性をマドリーはわかっていない」 と話していたようですが、 これは非常にダイレクトに事実を語っていたと言えるでしょう。 すなわちナルシシズムから意見を表明していただけではなく、「 ゴールを決めることができる選手の重要性を、 クラブは本当の意味でわかっていない」 という意見表明だったわけです。 自分自身がそういうスコアリングマシーンになることで、 他メンバにそこまでのプロセスを精度高く遂行することを求めた。 それを継続するためには彼自身がマシーンとしての精度・ エネルギーを落とさずに走りきる必要があり、 そのことは傍で見ている人に理解できないほど大変なのだ、 ということなんですね。
このあたりのロナウドのプロフェッショナリズムが私はすごく好きなんですが、それはエゴと隣り合わせであるし、 あるときはエゴそのものになってしまうこともあると思います。 そういう選手のエゴが激しくぶつかり合って場の緊張感を高めパワーを放出していくのがマドリーのやり方で、 その方向性を正しい方向に向けられるのがジダンだったと思うのですが…。そもそも場のパワー自体が減退したのではないか、 そして(ソラーリでは) 正しい方向に向けることもままならなかったのではないかという気 がしてなりません。
今後は新しい監督・ 新しい選手のチームになっていくのでしょうが、核となる選手( ある種のエゴをもちつつ、 他の選手を巻き込んでチームを進める熱量をもった選手) が誰になるのか、 その集団がどういうスタイルでヨーロッパの覇権を取り戻すのか( 取り戻すことに疑いはありません)を見ていきたいなと思います。


同様にサイクルの終焉を迎えているのは、 バルセロナだと思いますが、 こちらははっきりとその事実が見えてない状況(兆候はいくらでもありますが)です。ただ、これも世界最高の選手がいる間はその得点力に隠れて見えないけれ ども、彼がいなくなったタイミングでは、 もう手の施しようがないほどになっている気がします。 次のメッシなんてどこにもいないわけで、 バルセロナはその哲学に基づいたスタイルに早く回帰しなければいけないわけですが、まだその機運は見えない。 リーガを失わなければ、 それをなすことは難しいのかもしれないですね。


人間というのはやはり変わることを恐れるものです。 バルセロナというクラブは、変えてはいけないものをわかっている分だけライバルよりも有利なはずですが、それでも今手の中にあるもの、自らの強みに見えてしまっているであろう理念には背く今のスタイルを手放すことができない。


勇気が試されている、そういう事でしょうか。

神よ。

そんなわけで約束どおり(?)キンシオについて

キンシオという神奈川ローカルの番組があります。
キン・ シオタニ氏が関東近辺の土地をいろいろなお題に沿って歩く、 という番組です。
これが月曜夜の23時からテレビ神奈川で放送されてまして、 ここ最近では毎週欠かさず見ている唯一のTV番組です。 放送されている時間帯が良い( 一人でリラックスして見ることができる)こと、 歩く場所がかなり都市郊外(田舎)である、 歴史蘊蓄がいろいろと織り交ぜられている、 音楽が良いなどがあるでしょうか。
この番組で放送した企画で最初にDVD化されたのは、 国道16号を行くものですが、NHKの「72時間」 にもありますが結構長い記録になっています。 それにキンシオでは、 その土地の人とかではなくダイレクトにその土地を知る・ 感じるというところが大きな特徴で、 その面でもNHKの72時間とはだいぶ趣を異にするものなのかも しれません。(つーのは、私はまだ見てないから…すみません)
あとは音楽ですかねー。田舎の風景の中を歩いて、 その回の放送を終わらせる場所を探してそこに到達する一連の流れ (番組終盤)には、BeatlesのLet it beがだいたい流れているのですが、 これがすごく侘しくも懐かしい気持ちにさせてくれるのです。 小学生だった自分が友達と遊んでいるところで、 だんだんと夕方になりそろそろ家に帰らなければいけない、 そのときの気持ちを非常にくっきりと思い出して浸ってしまいます 。
書いていて気づきましたが、 こういう子供のころの気持ちに浸るというのが、 自分にとって毎週見てしまう理由なのでしょう。見た翌日( 火曜日)は、「昨日は楽しかった、 最後は帰りたくないような帰りたいような侘しい気持ちになった。 今日も頑張って遊んでみよう」という気持ちになって、 週に一度の安堵があるのだなぁと思い知った所存です。
関東圏であれば見ることができるようですので、 皆さんも一度視聴いただけると子どものころの気持ちを味わえるか もしれませんよー。

 

un poco footとfootballista

ほぼ半年ぶりのエントリとなってしまいました。
皆さん(て誰だ?)いかがお過ごしでしょうか。

この半年間、私自身もいろいろとありまして、なかなかブログ書けずじまいでした。
ちょっと妻の体調が悪くなってしまったり、それを受けて仕事をどうしようかと考えたり。
退職エントリは書きませんが、会社を移ることにしました。

しかし!まぁ読書はしようね、ということでこのブログはよりドライブかけて進めていかねばと思って、とりあえず手を動かしてみました。
で、最近読んだ本何かな、と思い返してみても、定期購読している「数学セミナー」と毎月買ってしまう「footballista」しかないのですね。


この半年、まともに本読んでないのかと。
読んではいたのですが、転職活動してたので、なんかそれに関係してるものとか読んでたので、まぁそこを外すと上記くらいなのです。
で転職活動やら退職のいろいろが終わって、ふっと一息つけている今日この頃、私がとても落ち着くのが表題の番組視聴とfootballistaであると、そういうわけです。

月刊フットボリスタ 2019年3月号

月刊フットボリスタ 2019年3月号

 

footballistaについてはこれまでも何度か書いてきましたが、とても面白いです。経営学の書籍よりも、組織運営の現場に役立つ観点や示唆を与えてくれる稀有な雑誌です。
特に今月出た66号は「「総力戦」となった現代サッカー」というテーマで、フロントから現場までが同じ方向を向いた判断基準をもっていないと成功できない、ということが前面に押し出していました。巻頭に林さんという奈良クラブGMのインタビューがあり、忌憚ない意見を語られていました。腑に落ちる感じがすごくありましたねー。


ちなみに私はユーべファンなのですが、ユーべについてはサッカーのプレーモデルとフロントの経営方針は切り離して考える方針で、ユベントスというブランド価値をあげていくためにチームを強くすることが必要であって、どのように強くするかはフロントの方針はないというものです。いい選手を連れてきて、チームを強くして、一方でブランド戦略をサッカーとは別に立案して推進するという方針です。これはレアル・マドリーも同じだという話です。良い悪いの話ではなく、そういう方針だということですね。

そんなわけで興味深く読みました。やっぱりスペインの2強は経営面でも世界で飛びぬけているわけなんですね。

でスペインの話題となれば、JSPORTSで制作されているウンポコです。


Un Poco Foot!2018 8/21配信(ナチュラルウーマン 編)

なぜかすげー昔のやつしかサジェストに出てこなかったのでこれで。

JSPORTSの菅原さん(プロデューサー)がやっている番組で、Leo the footballさんと2人で話すというのが定型です。ときどき小澤一郎さんが出演されています。

んで、まぁこれが面白い。ほぼ同世代である菅原さんの話は懐かしい話がドストライクである、ということもあるのですが話される内容と話し方が心地よいですね。2018年の夏(つまりサッカーのオフシーズン)に、菅原さんが一人で合計9回放送されたオフシーズンのウンポコは疲れたときにゆっくりしながら視聴するのにもう最適で、同じ回を何度もみてしまっております。

仕事場としてのJSPORTSの楽しそうな雰囲気(若干、菅原さんのジャイアニズムが散見されることはありますが、それも含めて)がよく伝わってくる、というのがその秘密なのかもしれない…と今これを書きながら気づきました。

JSPORTSのFootは、平日にやっている番組ですが火曜はスペインサッカー情報の日で、菅原さんとLeoさんはここのレギュラーなのですね。で、その収録の後に、youtubeで配信するウンポコを収録している、ということらしいです。

だいたい、家族が床についてから夜に風呂入って寝るまでの間に視聴しているのですが、この時間が一週間のうちで一番リラックスしてます。

二番目は月曜夜にtvkでキンシオ見てるときだなぁ。それはそれで、そのうち書きます。ローカル局でのバラエティ番組としてはめちゃくちゃスマートだなー、さすが横浜、、と思ったりしてます。そういうのは九州では鉄板の「ドォーモ」のようなイメージが強いので、キンシオは衝撃的だったなぁ。

まぁそれはまた別の話で。

風土によってメソッドは変えるべきである。

ずいぶんと長く書かなかったのですが、あまりこれという本がなかったのと会社を変わっていろいろと中の観察が楽しくて書けてませんでした。。。今回は久々に「おおっ!」と声に出してしまうような学びと感動があり、ブログでも書いてみようかと思い立った次第です。

その本がコレ。

日本人という鬱病

日本人という鬱病

 

 若干古い本ですが、結論に至る思考過程が丁寧に書かれていて、知的エンタテインメントともいうべき楽しみがありました。もともとは学術論文であったものを、一般向けに書き直したという経緯もあり結論までの導出過程が丁寧です。

↓の本はほぼ同じテーマのものをさらに新書版で書いたもの(前掲書からさらに思考をすすめたものもありますが大半は同じです)ですが、前掲書をサマライズして結論への説明が簡略化されていることもあり、わかりにくいというか興奮が得られない部分があります。新書といえど結論に至るまでの興奮がなくなってしまうのは大きな損失で、これは巷にある新書の大きな問題点でもありますね。 

うつを生きる (ちくま新書)

うつを生きる (ちくま新書)

 

 さて「日本人という鬱病」についてですが、内容としてはうつ病のなかで日本人に多い「メランコリー親和型」というタイプについて考察したものです。特にこのタイプが日本人に多い、というところからさらに極端な仮説をとり「日本人一般(こそ)がこのタイプの資質を持っている」というところから、日本人の特質とこのタイプの症状を読み解きながら日本人とは根本的にどういう考え方・感じ方の特徴をもっているかを考察します。

その詳しいところ、結論については本書に譲りますが、結論としてはラディカルでありながら非常に納得のいくものでもあります。そして、私の属するIT業界でよく取り込まれる新たなプラクティスなどについても、この風土の違いを考慮しなければまずうまくいかないはず、という痛い事実を突きつけられました(私は個人的に)。

本当に結論部分だけのところを言うと、日本に多いメランコリー親和型うつ病の性質として「人とのやりとりはすべて「貸し借り」として処理しようとする」傾向が非常に強い、ということが言われています。そしてそれらの性質を細かく見ていくと、常識的な日本人的規範(武士道にも近い)にいきつくわけです。

そして、このような傾向を国民性として文化的に持つ国(メランコリー親和型うつ病が問題になっている国)は、今のところ日本がダントツということでした。ということは諸外国、特に著者が留学したドイツを含むヨーロッパ圏においては全く異なるということなのですね。おそらく米国(IT系の新しいプラクティスはかの国から来ることが非常に多い)もヨーロッパ圏と同じなんじゃないでしょうか。ということは新しいプラクティスが、その本来の効力を発揮するには、少しずつプラクティスを変えて導入する必要がある、ということです。そのあたりに繊細にアンテナを張っておかなければ、我々はスクラムだなんだと言ってますがうまい効果は発揮できないのだろうなと。

これはアジャイル系だけではなく、通常のマネジメント理論についてもまったく同じことが言えるわけです。そのようなことを考えてやってきたのだろうか、これまではとにかく新しいメソッドを導入して、日本に何とかして導入しようとして、少ししかうまくいっていないのではないか。

アメリカが日本の数々のメソッドの本質を学び取って、経営学に落とし込んでいった過程でそのような風土の違いを織り込んで自らに導入できる形にトランスフォーメーションした際の知恵ともいうべきところがあれば、その逆をやればいいわけなのですが、そのような文化的な相違点とそれをどのように自国へ取り込むことに活かしたのか、そういう本ってないかな…と考えたりしました。

ともかく、この本は非常に面白く、学ぶところが大きい。

グローバルプロジェクトでこの辺りの本の鋭さに反応できないマネージャーがいたら、すぐにクビだな、、とか考えたりもしました。

なんか久々にこういう風土みたいなものへの興味が復活してきたな。。。これはやはり和辻の「風土」に行くべきですかね。

風土―人間学的考察 (岩波文庫)

風土―人間学的考察 (岩波文庫)

 

 

警官の掟

 佐々木譲の新刊文庫「警官の掟」を通勤中に読んでいたのですが、後半からラストまでは家族が寝たあとに家で読んでしまいました。そして、読み終わったあとは大きな虚脱感に襲われる、そして少し時間を空けて再読するでしょう。

警官の掟 (新潮文庫)

警官の掟 (新潮文庫)

 

 著者は警察小説では様々な著作がありますが、なかでも「警官の血」は類まれなる傑作です。

 特に、父と息子の関係、息子が父に対する想いを抱きながら、業というか血というか、抗えないものとともに生きていく物語は、荘厳でさえあると感じました。

警官の血〈上〉 (新潮文庫)

警官の血〈上〉 (新潮文庫)

 
警官の血〈下〉 (新潮文庫)

警官の血〈下〉 (新潮文庫)

 

 で、「警官の掟」ですが、小説の構成からいうと2組の捜査が順番に語られて最後に交わる、という形になっています。この構成も物語の雰囲気とマッチしていて、その他いろいろな対比としても有効に働いていると思います。

また、著者の小説の中でも、捜査のディテールが非常に書き込まれているところがあり、東京の地形や風土みたいなものに興味ある方にはストライクではないかと。私自身、警察小説ということと同等くらいの興味でそちらの内容も楽しめました。著者はその土地の地形・風土などもさまざま書き込んでいます。

今回の舞台は、品川〜蒲田〜川崎という産業道路沿いを舞台にしていて、そういうところの雰囲気が気になっている人(少数派か・・・)には大きな魅力です。ま、以下のようなサイトが気になっている人のことですね。

portal.nifty.com

この小説のラストの迫力、セリフの重さは圧倒的で、ぜひ最後まで読んでいただきたいわけですが、ハマって読むと私のようにちょい虚脱感に襲われて数日仕事が手につかない状態になるかもしれませんが(私がナイーブすぎるのか)、それもよいのではないかと思います。

 

一言でいうと、やはり圧倒的な小説だなと。人生に必要な教養って、こんなものじゃないかな、と遠くを見ながら感じたりしました。

フォルクスワーゲンの闇、あるいはフェルディナント・ピエヒについて

フォルクスワーゲンの闇、通勤電車の中で読んでおりました。

フォルクスワーゲンの闇 世界制覇の野望が招いた自動車帝国の陥穽

フォルクスワーゲンの闇 世界制覇の野望が招いた自動車帝国の陥穽

 

最後は家族が寝た後にこっそり読んだりしてスピードアップしつつ読了しました。どちらかというと後半は若干どうでもいい感じがあり、スピードアップした部分が大きいです。タイトルにある通り、本書前半の主人公であるフェルディナント・ピエヒに対する興味が大きく、後半のディーゼル排ガス不正に関するフォルクスワーゲンの間違った対応とか、どういう間違い方をしたのかとかについてはそこまで面白くないな、、、と感じたこともあります。
まぁ、この点については本エントリの後半に述べようと思います。

まずは本書の内容ですが、フォルクスワーゲンの成り立ち、フェルディナント・ピエヒの物語、フォルクスワーゲンの膨張とその背景、排ガス不正が見つかる経緯とその結果、の4つから構成されています。

フォルクスワーゲンの成り立ちについては聞いたことがあったものの、ナチス政権下で国民車をつくる目的だったのを始めて書物で確認しました。ただし、戦時中は戦車しか作れず、戦後はフェルディナント・ポルシェ(フェルディナント・ピエヒの祖父)が生み出したビートルによって、北米市場で旋風を巻き起こしたことが語られます。よくナチスが作ったメーカーの車が流行ったなと思いますが、もともとフォルクスワーゲン知名度が低くいわゆるアメ車へのアンチテーゼとして若者にウケた、という説明になってます。
反戦運動など、既成の体制に反発する若者のムーブメントに、必要最低限でポップなビートルがマッチしたというところなのですが、たしかにヒッピーの文化とマッチする車のようにも思います。設計したフェルディナント・ポルシェの思いは国民車としてなのでしょうが、まったく違う文脈で評価されフォルクスワーゲンの発展に寄与したわけですね。

2番目のフェルディナント・ピエヒの物語ですが、これはフェルディナント・ポルシェとともに登場してきます。祖父ポルシェとともにフォルクスワーゲンの工場で過ごし、成長してフォルクスワーゲンのトップにまで上り詰める過程は、冷徹な判断と上昇志向、譲らない頑固さがあります。特に最後の要素が、この手の書物によく書かれている「権力欲にまみれたトップ」とは別のキャラクターを印象づけます。権力欲ではなく、自分の理想とする技術発展、プロダクトを自らの手で実現させるために会社のトップにまで上り詰めた、とでも言わんばかりの人生として描かれている(すくなくとも私はそういう印象を受けた)のが特徴的です。

3番目と4番目は、フォルクスワーゲンの社内風土がどのようなもので、どのような背景をしてジャイアントに成長していき、何が(誰が)彼らを追い詰めたのか、がドキュメンタリーとして語られています。実際に路上走行での窒素酸化物排出量を測定したウエスバージニア大学のチームが結果を論文にし、彼らに協力したカリフォルニア州大気資源局(CARB)がフォルクスワーゲンと問題の除去(彼らはフォルクスワーゲンの悪意を当初は疑っていなかった)と協議し、その中でだんだんと追い詰められていきます。
この手の社会的な問題に対する対応としてはあまり良くないパターン(問題の所在を認めない、倫理ではなく技術の問題だと強弁する、など)を繰り返し、最終的には大きな賠償金を支払うことになります。この点はまだすべて終わったわけではないというのが現状です。

ただし会社としては技術を前へすすめなければ競合と戦うことはできない。この点から考えると、もともとフォルクスワーゲンが拡大し、排ガス不正をすることになった原因としては、長年進めてきた「クリーン・ディーゼル」(クリーン、が嘘だった)という方針をどのように転換するかがポイントで、これは本書の中では語られていなかったものです。
先日の日経では、ヨーロッパ(ドイツ)の当局もディーゼルでの環境改善ではなく、電気自動車へシフトする方向に向かっているようです。(https://www.nikkei.com/article/DGKKZO27789590W8A300C1TJ2000/

フォルクスワーゲンジャイアントにした、クリーンなディーゼルエンジンによる大気改善(もちろん、フォルクスワーゲン自身が推進した側面が多分にあるわけですが)という方向性の転換が最後の牙城であるドイツ国内でも起こっていて、これに対応していくためには会社組織も変わっていく必要があります。
次の主流が電気自動車となった場合、自動車の構造は変わり、もっとも難易度が高いのは電池(安全性、持ち時間)になり、駆動部分については単純にして、制御をソフトウェアで実施するようになるでしょう。これは従来の自動車メーカーがやってきたことの付加価値がこれまでよりも低下し、どちらかというと電池を購入して、駆動装置や人の乗るスペースの設計をし、組み立てるメーカーになってしまいます。
そのために自動車メーカーは機械学習、自動運転、それらを綜合して安全な交通システムの再構築へシフトしようとしています。この動きについていくのか、それとも別の生きる道を探すのか。ただし、「国民車を作る」というもともとのコンセプトからするとやはりシステムの再構築へ向かうしかない、というのが私の現時点での印象です。特徴ある車をつくり、人やモノを運ぶ、以外の価値を提供するには文化が決定的に欠けているように見受けられます。

本書を読み終わり、日経記事を読んでみて感じるのは、「この状況をフェルディナント・ピエヒはどう考えるのか」ということでした。彼はディーゼルエンジンをその当時の背景も踏まえて、チャレンジすべき技術課題と設定しこれを進めることでトップに上り詰めたわけです。トップについてからも技術的な面にこだわりを見せ、それ以外への執着というのがそれほど見えないのですね。
彼がもし今、これから上り詰めようとする若者であれば、おそらくこの機会をとらえて、自動車部品業界のより一層の水平化・効率化、それを背景にした交通システムの再構築をまったく違う分野の企業と強烈なタッグを組んで(あるいは買収して)進めていくのではないか、と思います。それを彼自身に聞いてみたい。
これまでの自分の判断やつくりあげた組織に引きずられて技術的な趨勢を見誤る、のが通常の老人なのだと思いますが、彼はそうではないのではないか。そこに大きな興味があります。