un poco footとfootballista

ほぼ半年ぶりのエントリとなってしまいました。
皆さん(て誰だ?)いかがお過ごしでしょうか。

この半年間、私自身もいろいろとありまして、なかなかブログ書けずじまいでした。
ちょっと妻の体調が悪くなってしまったり、それを受けて仕事をどうしようかと考えたり。
退職エントリは書きませんが、会社を移ることにしました。

しかし!まぁ読書はしようね、ということでこのブログはよりドライブかけて進めていかねばと思って、とりあえず手を動かしてみました。
で、最近読んだ本何かな、と思い返してみても、定期購読している「数学セミナー」と毎月買ってしまう「footballista」しかないのですね。


この半年、まともに本読んでないのかと。
読んではいたのですが、転職活動してたので、なんかそれに関係してるものとか読んでたので、まぁそこを外すと上記くらいなのです。
で転職活動やら退職のいろいろが終わって、ふっと一息つけている今日この頃、私がとても落ち着くのが表題の番組視聴とfootballistaであると、そういうわけです。

月刊フットボリスタ 2019年3月号

月刊フットボリスタ 2019年3月号

 

footballistaについてはこれまでも何度か書いてきましたが、とても面白いです。経営学の書籍よりも、組織運営の現場に役立つ観点や示唆を与えてくれる稀有な雑誌です。
特に今月出た66号は「「総力戦」となった現代サッカー」というテーマで、フロントから現場までが同じ方向を向いた判断基準をもっていないと成功できない、ということが前面に押し出していました。巻頭に林さんという奈良クラブGMのインタビューがあり、忌憚ない意見を語られていました。腑に落ちる感じがすごくありましたねー。


ちなみに私はユーべファンなのですが、ユーべについてはサッカーのプレーモデルとフロントの経営方針は切り離して考える方針で、ユベントスというブランド価値をあげていくためにチームを強くすることが必要であって、どのように強くするかはフロントの方針はないというものです。いい選手を連れてきて、チームを強くして、一方でブランド戦略をサッカーとは別に立案して推進するという方針です。これはレアル・マドリーも同じだという話です。良い悪いの話ではなく、そういう方針だということですね。

そんなわけで興味深く読みました。やっぱりスペインの2強は経営面でも世界で飛びぬけているわけなんですね。

でスペインの話題となれば、JSPORTSで制作されているウンポコです。


Un Poco Foot!2018 8/21配信(ナチュラルウーマン 編)

なぜかすげー昔のやつしかサジェストに出てこなかったのでこれで。

JSPORTSの菅原さん(プロデューサー)がやっている番組で、Leo the footballさんと2人で話すというのが定型です。ときどき小澤一郎さんが出演されています。

んで、まぁこれが面白い。ほぼ同世代である菅原さんの話は懐かしい話がドストライクである、ということもあるのですが話される内容と話し方が心地よいですね。2018年の夏(つまりサッカーのオフシーズン)に、菅原さんが一人で合計9回放送されたオフシーズンのウンポコは疲れたときにゆっくりしながら視聴するのにもう最適で、同じ回を何度もみてしまっております。

仕事場としてのJSPORTSの楽しそうな雰囲気(若干、菅原さんのジャイアニズムが散見されることはありますが、それも含めて)がよく伝わってくる、というのがその秘密なのかもしれない…と今これを書きながら気づきました。

JSPORTSのFootは、平日にやっている番組ですが火曜はスペインサッカー情報の日で、菅原さんとLeoさんはここのレギュラーなのですね。で、その収録の後に、youtubeで配信するウンポコを収録している、ということらしいです。

だいたい、家族が床についてから夜に風呂入って寝るまでの間に視聴しているのですが、この時間が一週間のうちで一番リラックスしてます。

二番目は月曜夜にtvkでキンシオ見てるときだなぁ。それはそれで、そのうち書きます。ローカル局でのバラエティ番組としてはめちゃくちゃスマートだなー、さすが横浜、、と思ったりしてます。そういうのは九州では鉄板の「ドォーモ」のようなイメージが強いので、キンシオは衝撃的だったなぁ。

まぁそれはまた別の話で。

風土によってメソッドは変えるべきである。

ずいぶんと長く書かなかったのですが、あまりこれという本がなかったのと会社を変わっていろいろと中の観察が楽しくて書けてませんでした。。。今回は久々に「おおっ!」と声に出してしまうような学びと感動があり、ブログでも書いてみようかと思い立った次第です。

その本がコレ。

日本人という鬱病

日本人という鬱病

 

 若干古い本ですが、結論に至る思考過程が丁寧に書かれていて、知的エンタテインメントともいうべき楽しみがありました。もともとは学術論文であったものを、一般向けに書き直したという経緯もあり結論までの導出過程が丁寧です。

↓の本はほぼ同じテーマのものをさらに新書版で書いたもの(前掲書からさらに思考をすすめたものもありますが大半は同じです)ですが、前掲書をサマライズして結論への説明が簡略化されていることもあり、わかりにくいというか興奮が得られない部分があります。新書といえど結論に至るまでの興奮がなくなってしまうのは大きな損失で、これは巷にある新書の大きな問題点でもありますね。 

うつを生きる (ちくま新書)

うつを生きる (ちくま新書)

 

 さて「日本人という鬱病」についてですが、内容としてはうつ病のなかで日本人に多い「メランコリー親和型」というタイプについて考察したものです。特にこのタイプが日本人に多い、というところからさらに極端な仮説をとり「日本人一般(こそ)がこのタイプの資質を持っている」というところから、日本人の特質とこのタイプの症状を読み解きながら日本人とは根本的にどういう考え方・感じ方の特徴をもっているかを考察します。

その詳しいところ、結論については本書に譲りますが、結論としてはラディカルでありながら非常に納得のいくものでもあります。そして、私の属するIT業界でよく取り込まれる新たなプラクティスなどについても、この風土の違いを考慮しなければまずうまくいかないはず、という痛い事実を突きつけられました(私は個人的に)。

本当に結論部分だけのところを言うと、日本に多いメランコリー親和型うつ病の性質として「人とのやりとりはすべて「貸し借り」として処理しようとする」傾向が非常に強い、ということが言われています。そしてそれらの性質を細かく見ていくと、常識的な日本人的規範(武士道にも近い)にいきつくわけです。

そして、このような傾向を国民性として文化的に持つ国(メランコリー親和型うつ病が問題になっている国)は、今のところ日本がダントツということでした。ということは諸外国、特に著者が留学したドイツを含むヨーロッパ圏においては全く異なるということなのですね。おそらく米国(IT系の新しいプラクティスはかの国から来ることが非常に多い)もヨーロッパ圏と同じなんじゃないでしょうか。ということは新しいプラクティスが、その本来の効力を発揮するには、少しずつプラクティスを変えて導入する必要がある、ということです。そのあたりに繊細にアンテナを張っておかなければ、我々はスクラムだなんだと言ってますがうまい効果は発揮できないのだろうなと。

これはアジャイル系だけではなく、通常のマネジメント理論についてもまったく同じことが言えるわけです。そのようなことを考えてやってきたのだろうか、これまではとにかく新しいメソッドを導入して、日本に何とかして導入しようとして、少ししかうまくいっていないのではないか。

アメリカが日本の数々のメソッドの本質を学び取って、経営学に落とし込んでいった過程でそのような風土の違いを織り込んで自らに導入できる形にトランスフォーメーションした際の知恵ともいうべきところがあれば、その逆をやればいいわけなのですが、そのような文化的な相違点とそれをどのように自国へ取り込むことに活かしたのか、そういう本ってないかな…と考えたりしました。

ともかく、この本は非常に面白く、学ぶところが大きい。

グローバルプロジェクトでこの辺りの本の鋭さに反応できないマネージャーがいたら、すぐにクビだな、、とか考えたりもしました。

なんか久々にこういう風土みたいなものへの興味が復活してきたな。。。これはやはり和辻の「風土」に行くべきですかね。

風土―人間学的考察 (岩波文庫)

風土―人間学的考察 (岩波文庫)

 

 

警官の掟

 佐々木譲の新刊文庫「警官の掟」を通勤中に読んでいたのですが、後半からラストまでは家族が寝たあとに家で読んでしまいました。そして、読み終わったあとは大きな虚脱感に襲われる、そして少し時間を空けて再読するでしょう。

警官の掟 (新潮文庫)

警官の掟 (新潮文庫)

 

 著者は警察小説では様々な著作がありますが、なかでも「警官の血」は類まれなる傑作です。

 特に、父と息子の関係、息子が父に対する想いを抱きながら、業というか血というか、抗えないものとともに生きていく物語は、荘厳でさえあると感じました。

警官の血〈上〉 (新潮文庫)

警官の血〈上〉 (新潮文庫)

 
警官の血〈下〉 (新潮文庫)

警官の血〈下〉 (新潮文庫)

 

 で、「警官の掟」ですが、小説の構成からいうと2組の捜査が順番に語られて最後に交わる、という形になっています。この構成も物語の雰囲気とマッチしていて、その他いろいろな対比としても有効に働いていると思います。

また、著者の小説の中でも、捜査のディテールが非常に書き込まれているところがあり、東京の地形や風土みたいなものに興味ある方にはストライクではないかと。私自身、警察小説ということと同等くらいの興味でそちらの内容も楽しめました。著者はその土地の地形・風土などもさまざま書き込んでいます。

今回の舞台は、品川〜蒲田〜川崎という産業道路沿いを舞台にしていて、そういうところの雰囲気が気になっている人(少数派か・・・)には大きな魅力です。ま、以下のようなサイトが気になっている人のことですね。

portal.nifty.com

この小説のラストの迫力、セリフの重さは圧倒的で、ぜひ最後まで読んでいただきたいわけですが、ハマって読むと私のようにちょい虚脱感に襲われて数日仕事が手につかない状態になるかもしれませんが(私がナイーブすぎるのか)、それもよいのではないかと思います。

 

一言でいうと、やはり圧倒的な小説だなと。人生に必要な教養って、こんなものじゃないかな、と遠くを見ながら感じたりしました。

フォルクスワーゲンの闇、あるいはフェルディナント・ピエヒについて

フォルクスワーゲンの闇、通勤電車の中で読んでおりました。

フォルクスワーゲンの闇 世界制覇の野望が招いた自動車帝国の陥穽

フォルクスワーゲンの闇 世界制覇の野望が招いた自動車帝国の陥穽

 

最後は家族が寝た後にこっそり読んだりしてスピードアップしつつ読了しました。どちらかというと後半は若干どうでもいい感じがあり、スピードアップした部分が大きいです。タイトルにある通り、本書前半の主人公であるフェルディナント・ピエヒに対する興味が大きく、後半のディーゼル排ガス不正に関するフォルクスワーゲンの間違った対応とか、どういう間違い方をしたのかとかについてはそこまで面白くないな、、、と感じたこともあります。
まぁ、この点については本エントリの後半に述べようと思います。

まずは本書の内容ですが、フォルクスワーゲンの成り立ち、フェルディナント・ピエヒの物語、フォルクスワーゲンの膨張とその背景、排ガス不正が見つかる経緯とその結果、の4つから構成されています。

フォルクスワーゲンの成り立ちについては聞いたことがあったものの、ナチス政権下で国民車をつくる目的だったのを始めて書物で確認しました。ただし、戦時中は戦車しか作れず、戦後はフェルディナント・ポルシェ(フェルディナント・ピエヒの祖父)が生み出したビートルによって、北米市場で旋風を巻き起こしたことが語られます。よくナチスが作ったメーカーの車が流行ったなと思いますが、もともとフォルクスワーゲン知名度が低くいわゆるアメ車へのアンチテーゼとして若者にウケた、という説明になってます。
反戦運動など、既成の体制に反発する若者のムーブメントに、必要最低限でポップなビートルがマッチしたというところなのですが、たしかにヒッピーの文化とマッチする車のようにも思います。設計したフェルディナント・ポルシェの思いは国民車としてなのでしょうが、まったく違う文脈で評価されフォルクスワーゲンの発展に寄与したわけですね。

2番目のフェルディナント・ピエヒの物語ですが、これはフェルディナント・ポルシェとともに登場してきます。祖父ポルシェとともにフォルクスワーゲンの工場で過ごし、成長してフォルクスワーゲンのトップにまで上り詰める過程は、冷徹な判断と上昇志向、譲らない頑固さがあります。特に最後の要素が、この手の書物によく書かれている「権力欲にまみれたトップ」とは別のキャラクターを印象づけます。権力欲ではなく、自分の理想とする技術発展、プロダクトを自らの手で実現させるために会社のトップにまで上り詰めた、とでも言わんばかりの人生として描かれている(すくなくとも私はそういう印象を受けた)のが特徴的です。

3番目と4番目は、フォルクスワーゲンの社内風土がどのようなもので、どのような背景をしてジャイアントに成長していき、何が(誰が)彼らを追い詰めたのか、がドキュメンタリーとして語られています。実際に路上走行での窒素酸化物排出量を測定したウエスバージニア大学のチームが結果を論文にし、彼らに協力したカリフォルニア州大気資源局(CARB)がフォルクスワーゲンと問題の除去(彼らはフォルクスワーゲンの悪意を当初は疑っていなかった)と協議し、その中でだんだんと追い詰められていきます。
この手の社会的な問題に対する対応としてはあまり良くないパターン(問題の所在を認めない、倫理ではなく技術の問題だと強弁する、など)を繰り返し、最終的には大きな賠償金を支払うことになります。この点はまだすべて終わったわけではないというのが現状です。

ただし会社としては技術を前へすすめなければ競合と戦うことはできない。この点から考えると、もともとフォルクスワーゲンが拡大し、排ガス不正をすることになった原因としては、長年進めてきた「クリーン・ディーゼル」(クリーン、が嘘だった)という方針をどのように転換するかがポイントで、これは本書の中では語られていなかったものです。
先日の日経では、ヨーロッパ(ドイツ)の当局もディーゼルでの環境改善ではなく、電気自動車へシフトする方向に向かっているようです。(https://www.nikkei.com/article/DGKKZO27789590W8A300C1TJ2000/

フォルクスワーゲンジャイアントにした、クリーンなディーゼルエンジンによる大気改善(もちろん、フォルクスワーゲン自身が推進した側面が多分にあるわけですが)という方向性の転換が最後の牙城であるドイツ国内でも起こっていて、これに対応していくためには会社組織も変わっていく必要があります。
次の主流が電気自動車となった場合、自動車の構造は変わり、もっとも難易度が高いのは電池(安全性、持ち時間)になり、駆動部分については単純にして、制御をソフトウェアで実施するようになるでしょう。これは従来の自動車メーカーがやってきたことの付加価値がこれまでよりも低下し、どちらかというと電池を購入して、駆動装置や人の乗るスペースの設計をし、組み立てるメーカーになってしまいます。
そのために自動車メーカーは機械学習、自動運転、それらを綜合して安全な交通システムの再構築へシフトしようとしています。この動きについていくのか、それとも別の生きる道を探すのか。ただし、「国民車を作る」というもともとのコンセプトからするとやはりシステムの再構築へ向かうしかない、というのが私の現時点での印象です。特徴ある車をつくり、人やモノを運ぶ、以外の価値を提供するには文化が決定的に欠けているように見受けられます。

本書を読み終わり、日経記事を読んでみて感じるのは、「この状況をフェルディナント・ピエヒはどう考えるのか」ということでした。彼はディーゼルエンジンをその当時の背景も踏まえて、チャレンジすべき技術課題と設定しこれを進めることでトップに上り詰めたわけです。トップについてからも技術的な面にこだわりを見せ、それ以外への執着というのがそれほど見えないのですね。
彼がもし今、これから上り詰めようとする若者であれば、おそらくこの機会をとらえて、自動車部品業界のより一層の水平化・効率化、それを背景にした交通システムの再構築をまったく違う分野の企業と強烈なタッグを組んで(あるいは買収して)進めていくのではないか、と思います。それを彼自身に聞いてみたい。
これまでの自分の判断やつくりあげた組織に引きずられて技術的な趨勢を見誤る、のが通常の老人なのだと思いますが、彼はそうではないのではないか。そこに大きな興味があります。

KTCロゴに反応

機械系のエンジニアであれば、どこかでお世話になっている工具。この工具でも一級品といえば、京都機械工具(略称:KTC)の工具です。

最近、自宅で使い始めたマグカップにまさしくこの「KTC」ロゴが刻まれており、「これは一体…」と思っていたところ、妻が在籍している会社のセミナーでお世話になった会社からいくつか購入したものとのこと。見た目もよかったので、2つ譲ってもらったようです。ちなみに見た目は以下のサイトで確認できます。

https://ktc.jp/catalog/index-category/category-list/yg-35w__r

まさしく…、まさしくKTC!
というわけで、早速愛用させていただいてます。工具メーカーが出したものだけあって、手にずしりとくる気持ちの良い重さ、頑健なつくり、マグカップたる機能に絞り込んで余計なことをしないデザイン、すべてが最高の体験でございます。
こういうことですよ。カスタマーエクスペリエンスがどうのこうの言ってる皆さんには、このマグカップで100杯のコーヒーを飲んできてから話せよと。まずはそこからですよ。

そんな感動を覚えつつ、自分がKTCに条件反射のように反応してしまう理由に思いをはせてしまいました。
理由には2つあって、1つは自分が離れてしまった機械工学の現場を思い出させること、もう1つは父が実家の工場で(彼にしては珍しいことに)KTCの工具は大切に使っていたことがあります。

1つ目については、もともと機械工学を専攻していた(高専の機械工学科なので大学まで含めると7年間)ものを、自分から離れて別の分野の大学院(基本文系のバックグラウンド理系の人が多い)に進んだことがあります。もういちど、あの時点で選択をしようとするならばやはり同じ選択をするだろうとも思うのですが、とはいえやはり思うところはあります。あのまま専門を変えずに進んでいたら、自分はどのようなキャリアを歩んでいたのか。おそらく、現在とは違う職業(今はシステムエンジニア)でしょうが、今と同じく専門性を突き詰めるよりもマネジメントをする方へだんだんと舵をきっていたと思います。その場合、41歳の私(今の私からすると「彼」ですね)は現在と違う世界を生きているであろうし、世間的には絶対に彼の方がマジョリティなのです。自分がマジョリティであると自覚しながら、会社で上へ登っていこうとする自分(彼)というのは正直想像がつきませんが、それだけに思いを馳せてしまう。

2つ目については、父の思い出、父がいた家族の思い出と不可分である実家の工場なので、いろいろなことを思い出してしまいます。自分の工場をつくり、毎日そこで仕事をしている姿。仕事は朝早くから夜遅くまでやっていて、日常的に工場で過ごしている感じです。ときどき私が手伝ったり、隣の自宅で洋裁の仕事をしている母に声をかけたりします。工場からの金属音、そして夕方になると少し離れた高校から吹奏楽の全体練習に入る前の音出しが聞こえてきます。学校から帰る子供・高校生が近くの道を歩いていて、そこを風が通り抜ける。風の肌ざわりや、聞こえてくる音、工場近くの油の匂い、それらすべてが一瞬のうちによみがえってくるのですね。
私にとって、KTCのロゴはそういうイメージを喚起するものです。

 

陸王から思いを馳せて早田俊幸へ

昨日、日曜劇場「陸王」が最終回でした。この数年ドラマは全く見れておらず、当然「陸王」も見てなかったのですが、長く昼寝をした息子と一緒に風呂からあがったらちょうどやっていたので最後までみてしまいました。

まぁ、わかりやすくて人への尊敬が感じられる良いドラマかなという印象でした。私はスポーツは何でも見る(機会があればやる)タイプで、陸上の長距離もよく見てました。マラソンはたいてい日曜の午前中にテレビ中継をやっていて、なんとなく見入ってそのままゴールまで見届けてしまう。典型的な暇な人ですね。

自分がよく見ていたのは10代後半で、だいたい90年代です。当時、強かった選手は旭化成谷口浩美(敬称略、以下同)、森下広一などでしたが、当時なんとなく気になって応援していたのが鐘紡の早田俊幸です。

頑健ではない(とくに90年代後半のレースでは、リタイアがときどきあった)けれども、とにかく速い。それが生かされるのが駅伝で、九州一周駅伝(都道府県対抗)なんかで宮崎(当時旭化成が連続日本一で無敵だった)がどうしても区間賞をとれなかったのが、早田俊幸が走る区間でした。

そんな彼がマラソンを走り始め、好記録をだし、すごい選手になると思われてたのですが、リタイアを繰り返してしまいます。そこから所属先を変えたり、練習方法も変えたりしつつ、マラソンで勝つために努力をしてある程度の結果を出しますが、最終的には当初ファンが思い描いていたような舞台に立つまでにはいたらなった、というのが彼の簡単なマラソンにまつわる歴史になるでしょう。

シニカルに見れば、彼の適性は1万メートルにあり、そこで世界を目指し続ける、マラソンはもっと後(ゲブレシラシエのように)、というのが良かったのだろうと思います。事実、ほぼ同世代の高岡寿成はそのように日本最高記録をたたき出したわけです。

しかし、彼は早い時期からマラソンへ転向し、そこに食らいつきながら競技人生を歩んだわけで、決して要領がいい選手ではありませんが、これこそが人生であって陸上ファンに深い感慨を抱かせる、心を震わせる人間という気がします。そりゃ良い成績を残したほうがいいに決まってますが、先を計算せずに走りたいレースを走る、そして苦労するのだけれども、それでもなお走り続けるというのは震えるほどカッコいいものです。

同じような感覚から、かつてクロサキに所属していた田尻裕一にも同じようなカッコよさを感じておりますが、それはまた別の話にしたいと思います。

新幹線大爆破

だんだんと年の瀬が迫ってまいりましたね。

私も11月いっぱいでプロジェクトを去りまして、12月頭から新しいプロジェクトへ参画しました。これはこれで新鮮な気持ちで日々を過ごしております。

さて10月に友人が東京の会社から大阪の会社へ転職いたしまして、12月頭に東京に出張があるということ飲みに行きました。まぁ、なかなか充実した会社生活のようで安心しました。

で、その彼が来るというので、「新幹線に何かなければいいですな」的な会話をしていたときに思い出したのが、映画「新幹線大爆破」です。

新幹線大爆破

新幹線大爆破

 

ちょうどAmazonビデオでプライム会員は無料となっていたので、これ幸いとみることにしました。

 驚いたのはオールスターキャストで作っているということなんですが、昔の大作ってこうだったなぁ、と思わせられる作品ですね。wikipedia先生によると、日本よりも海外で人気があるとのこと、たしかにあんまり聞かないな(これだけキャッチーなタイトルなのに…)とは思いました。

内容はというと、速度が80キロ以下に落ちると爆弾が爆発するという「スピード」と同じやつです。というか、「スピード」がこの設定をバスでパクったわけですね。

スピード (字幕版)

スピード (字幕版)

 

 ただ、犯人や乗客のドラマを描くとか、高倉健演じる犯人のわびしさが残るラストとか、事件の対応にあたる管制官宇津井健の自分に対する失望とか、やはりどことなくやるせなさを挟み込んでくる東映は、スピードと違う魅力があると思いました。まぁ、スピードを好きな人の方が多い気もしますが。

なんか仕事のための本を読んだり、自分の興味ある分野の勉強とか、趣味の本とか、やらなきゃいけないことはありつつ、年末進行であまり通勤電車の中で本を読む気になれない、ぼーっとしたいという感じがあり、最近はずっとAmazonビデオにお世話になりっぱなりです。

うーん、読めないなぁ。。。