フォルクスワーゲンの闇、あるいはフェルディナント・ピエヒについて

フォルクスワーゲンの闇、通勤電車の中で読んでおりました。

フォルクスワーゲンの闇 世界制覇の野望が招いた自動車帝国の陥穽

フォルクスワーゲンの闇 世界制覇の野望が招いた自動車帝国の陥穽

 

最後は家族が寝た後にこっそり読んだりしてスピードアップしつつ読了しました。どちらかというと後半は若干どうでもいい感じがあり、スピードアップした部分が大きいです。タイトルにある通り、本書前半の主人公であるフェルディナント・ピエヒに対する興味が大きく、後半のディーゼル排ガス不正に関するフォルクスワーゲンの間違った対応とか、どういう間違い方をしたのかとかについてはそこまで面白くないな、、、と感じたこともあります。
まぁ、この点については本エントリの後半に述べようと思います。

まずは本書の内容ですが、フォルクスワーゲンの成り立ち、フェルディナント・ピエヒの物語、フォルクスワーゲンの膨張とその背景、排ガス不正が見つかる経緯とその結果、の4つから構成されています。

フォルクスワーゲンの成り立ちについては聞いたことがあったものの、ナチス政権下で国民車をつくる目的だったのを始めて書物で確認しました。ただし、戦時中は戦車しか作れず、戦後はフェルディナント・ポルシェ(フェルディナント・ピエヒの祖父)が生み出したビートルによって、北米市場で旋風を巻き起こしたことが語られます。よくナチスが作ったメーカーの車が流行ったなと思いますが、もともとフォルクスワーゲン知名度が低くいわゆるアメ車へのアンチテーゼとして若者にウケた、という説明になってます。
反戦運動など、既成の体制に反発する若者のムーブメントに、必要最低限でポップなビートルがマッチしたというところなのですが、たしかにヒッピーの文化とマッチする車のようにも思います。設計したフェルディナント・ポルシェの思いは国民車としてなのでしょうが、まったく違う文脈で評価されフォルクスワーゲンの発展に寄与したわけですね。

2番目のフェルディナント・ピエヒの物語ですが、これはフェルディナント・ポルシェとともに登場してきます。祖父ポルシェとともにフォルクスワーゲンの工場で過ごし、成長してフォルクスワーゲンのトップにまで上り詰める過程は、冷徹な判断と上昇志向、譲らない頑固さがあります。特に最後の要素が、この手の書物によく書かれている「権力欲にまみれたトップ」とは別のキャラクターを印象づけます。権力欲ではなく、自分の理想とする技術発展、プロダクトを自らの手で実現させるために会社のトップにまで上り詰めた、とでも言わんばかりの人生として描かれている(すくなくとも私はそういう印象を受けた)のが特徴的です。

3番目と4番目は、フォルクスワーゲンの社内風土がどのようなもので、どのような背景をしてジャイアントに成長していき、何が(誰が)彼らを追い詰めたのか、がドキュメンタリーとして語られています。実際に路上走行での窒素酸化物排出量を測定したウエスバージニア大学のチームが結果を論文にし、彼らに協力したカリフォルニア州大気資源局(CARB)がフォルクスワーゲンと問題の除去(彼らはフォルクスワーゲンの悪意を当初は疑っていなかった)と協議し、その中でだんだんと追い詰められていきます。
この手の社会的な問題に対する対応としてはあまり良くないパターン(問題の所在を認めない、倫理ではなく技術の問題だと強弁する、など)を繰り返し、最終的には大きな賠償金を支払うことになります。この点はまだすべて終わったわけではないというのが現状です。

ただし会社としては技術を前へすすめなければ競合と戦うことはできない。この点から考えると、もともとフォルクスワーゲンが拡大し、排ガス不正をすることになった原因としては、長年進めてきた「クリーン・ディーゼル」(クリーン、が嘘だった)という方針をどのように転換するかがポイントで、これは本書の中では語られていなかったものです。
先日の日経では、ヨーロッパ(ドイツ)の当局もディーゼルでの環境改善ではなく、電気自動車へシフトする方向に向かっているようです。(https://www.nikkei.com/article/DGKKZO27789590W8A300C1TJ2000/

フォルクスワーゲンジャイアントにした、クリーンなディーゼルエンジンによる大気改善(もちろん、フォルクスワーゲン自身が推進した側面が多分にあるわけですが)という方向性の転換が最後の牙城であるドイツ国内でも起こっていて、これに対応していくためには会社組織も変わっていく必要があります。
次の主流が電気自動車となった場合、自動車の構造は変わり、もっとも難易度が高いのは電池(安全性、持ち時間)になり、駆動部分については単純にして、制御をソフトウェアで実施するようになるでしょう。これは従来の自動車メーカーがやってきたことの付加価値がこれまでよりも低下し、どちらかというと電池を購入して、駆動装置や人の乗るスペースの設計をし、組み立てるメーカーになってしまいます。
そのために自動車メーカーは機械学習、自動運転、それらを綜合して安全な交通システムの再構築へシフトしようとしています。この動きについていくのか、それとも別の生きる道を探すのか。ただし、「国民車を作る」というもともとのコンセプトからするとやはりシステムの再構築へ向かうしかない、というのが私の現時点での印象です。特徴ある車をつくり、人やモノを運ぶ、以外の価値を提供するには文化が決定的に欠けているように見受けられます。

本書を読み終わり、日経記事を読んでみて感じるのは、「この状況をフェルディナント・ピエヒはどう考えるのか」ということでした。彼はディーゼルエンジンをその当時の背景も踏まえて、チャレンジすべき技術課題と設定しこれを進めることでトップに上り詰めたわけです。トップについてからも技術的な面にこだわりを見せ、それ以外への執着というのがそれほど見えないのですね。
彼がもし今、これから上り詰めようとする若者であれば、おそらくこの機会をとらえて、自動車部品業界のより一層の水平化・効率化、それを背景にした交通システムの再構築をまったく違う分野の企業と強烈なタッグを組んで(あるいは買収して)進めていくのではないか、と思います。それを彼自身に聞いてみたい。
これまでの自分の判断やつくりあげた組織に引きずられて技術的な趨勢を見誤る、のが通常の老人なのだと思いますが、彼はそうではないのではないか。そこに大きな興味があります。