サイクルの終焉

レアル・ マドリーがノックアウトステージ1回戦でアヤックスに惨敗…、 そうですね、まさに惨敗しました。 いろいろな分析がされていますし、 バルサスタイルの源流ともいうべきアヤックスによって連覇を止め られたことに歴史的な意味を見出す俯瞰的な論考もありました。
とはいえ目の前で起こったことを見たときに感じるのは、 ひとつひとつの局面ではそれほど大きく劣っていたわけではないのに、少しずつ一歩足りないという状況が重なり、スコア上の大敗がもたらされたという事実が示す「サイクルの終焉」の残酷さです。 残酷なまでにはっきりと数字に出てしまう( ときには目に見えている実情よりもはるかにはっきりと) フットボールというのは、 ある種の人間には感知しえない世界の真実を映し出すものなのかも しれないなぁと思ったりもします。
戦術的なことはまた戸田和幸氏による解説がメディアに出てくるはずですが…、 パッと見た感じで言うと決定的な局面が攻守ともによく発生していたので、ここ3年ほど盤石であったレアル・ マドリーの中盤がその力を活かせるような戦術になっていないのだろうなと、単純に思いました。 3人で構成されるマドリーの中盤に対して、 アヤックスの前か横かの選手が入ってきて数的優位を作り攻撃のチャンスを作っていたのかなぁという感じです。 通常のマドリーだと、セルヒオ・ラモスは前にも横にも広くポジションとるのでそういうアクションでバランスをとっていたはずですが、 彼がいなかったのは大きかったと思います( ドキュメンタリーの撮影していたという噂ですが)。
ともあれ、 結果が示しているのは戦術云々ではなく現メンバではヨーロッパの王座をとることはできなくなった、組織として衰えてしまった、 ということです。その面から言うと、クリスティアーノロナウドジダンがいなくなったというのは、 非常に大きかったんだなと、後知恵では感じてしまいます。
特にロナウドは「自分の重要性をマドリーはわかっていない」 と話していたようですが、 これは非常にダイレクトに事実を語っていたと言えるでしょう。 すなわちナルシシズムから意見を表明していただけではなく、「 ゴールを決めることができる選手の重要性を、 クラブは本当の意味でわかっていない」 という意見表明だったわけです。 自分自身がそういうスコアリングマシーンになることで、 他メンバにそこまでのプロセスを精度高く遂行することを求めた。 それを継続するためには彼自身がマシーンとしての精度・ エネルギーを落とさずに走りきる必要があり、 そのことは傍で見ている人に理解できないほど大変なのだ、 ということなんですね。
このあたりのロナウドのプロフェッショナリズムが私はすごく好きなんですが、それはエゴと隣り合わせであるし、 あるときはエゴそのものになってしまうこともあると思います。 そういう選手のエゴが激しくぶつかり合って場の緊張感を高めパワーを放出していくのがマドリーのやり方で、 その方向性を正しい方向に向けられるのがジダンだったと思うのですが…。そもそも場のパワー自体が減退したのではないか、 そして(ソラーリでは) 正しい方向に向けることもままならなかったのではないかという気 がしてなりません。
今後は新しい監督・ 新しい選手のチームになっていくのでしょうが、核となる選手( ある種のエゴをもちつつ、 他の選手を巻き込んでチームを進める熱量をもった選手) が誰になるのか、 その集団がどういうスタイルでヨーロッパの覇権を取り戻すのか( 取り戻すことに疑いはありません)を見ていきたいなと思います。


同様にサイクルの終焉を迎えているのは、 バルセロナだと思いますが、 こちらははっきりとその事実が見えてない状況(兆候はいくらでもありますが)です。ただ、これも世界最高の選手がいる間はその得点力に隠れて見えないけれ ども、彼がいなくなったタイミングでは、 もう手の施しようがないほどになっている気がします。 次のメッシなんてどこにもいないわけで、 バルセロナはその哲学に基づいたスタイルに早く回帰しなければいけないわけですが、まだその機運は見えない。 リーガを失わなければ、 それをなすことは難しいのかもしれないですね。


人間というのはやはり変わることを恐れるものです。 バルセロナというクラブは、変えてはいけないものをわかっている分だけライバルよりも有利なはずですが、それでも今手の中にあるもの、自らの強みに見えてしまっているであろう理念には背く今のスタイルを手放すことができない。


勇気が試されている、そういう事でしょうか。

神よ。