「終わりの始まり」という状況は、周囲からはハッキリ見える。

「終わりの始まり」というキーフレーズは、物語の中ではよくぶち当たるものです。バランスと秩序を保っていた状況が崩壊していく暗示としてよく用いられます。もしくは、順調に育ってきたものがその成熟段階を終えて、収束に向かうときとかですねー。

40年も生きてくると、社会人としていろいろな組織に(私は結構会社変わってるので)属してきまして、そういう感慨を抱くこともありました。まぁ、あんまり良い状況ではないですね。ただし、崩壊することで新しく生まれ変わることができるわけでもあり、これはやはり希望なんですね。

ということを最初に書いておきつつ、そんな「終わりの始まり」の景色というのは当事者にはあんまり見えないものなんだなということを書いてみます。ちなみに、今回は読書は関係なく、私が昔在籍していた大学の研究室の話です。読書日記なのに。。。

私はもともとは工学部のとある学科を卒業したのですが、ちょっと違う方面(ある種の歴史とか哲学)の大学院へ進学しまして、修士課程を修了した後、就職して働き始めました。大学院の専攻は特に学部の専攻とも違うし、現在の職種(システムエンジニア)とも関係ありません。ちょっとマイナーな学問ではありました。講座には研究室(教授 or 准教授1人が1つの研究室をもつ)が5つあり、院生は総計で15~16人くらいでした。院生は全員1つの院生室にいて、ほとんど同じ授業に出て、ゼミは個別の研究室でやっていた感じです。

当時は、2年連続で4人が入ってきたこともあり(私含め)、人が多くなってきて盛り上がってきた感じでした。ただし、他分野出身の学生ばかりで研究への姿勢含めバラバラな人たちの集まりで、ひどく雑多な印象がありました。私はそういう雰囲気がすごく好きだったのですが。。。既にある程度の研究実績があり、本格的に研究をしようとしている人にとっては、ハイレベルの会話が院生室でできないというのはストレスだったのだろうと思います。

それから10年弱経ってから、研究室内の定期報のようなものを読ませてもらったのですが、そこには以下のようにありました。「数年前と比較して、最近の院生には各個人のレベルが上がっている、授業への出席率が高い、院生室の滞在率が高い。院生室での議論も専門性が高まり結果的に質の高い議論ができる環境になってきた」という内容でした。

私自身がそのようなポジティブな貢献ができる院生ではなかったので申し訳なかったなと思いつつ、純粋にうらやましいなという感覚も覚えました。まぁ私自身は、もっと雑多で専門性が多少低くてもいろんなバックグラウンドの人がいたほうが過ごしやすいと感じていたので、私にはつらくなってきたなと思ったことも記憶しています。

ただ、「これは終わりの始まりだな」というのも思いました。マイナーな学問であったこと、ほとんどの学生は大学院からこの学問を本格的に始めることを考えれば、院生室の各個人がこの学問に十分馴染んでレベルが高くなっていて、質の高い議論ができる快適な空間になっている、というのは人が入ってこなくなったことが背景としてあり、他分野から入る際のハードルも高くなっていると考えられます。

「こんなに活発に活動している、レベルの高い議論をしている我々の研究室に参加しませんか?」というのが響くのは、その分野自体が盛り上がっているときであって、ただそういうタイミングは何もしなくても人は集まるんですよね。テーマとして人が集まらなくなった場合に、さてどう誘うかというのはやはり入りやすさの仕組みを充実させるのが王道です。

今は、そもそも常勤スタッフが減ったこともあり、学生はかなり少なくなっています。上記のメモの時期はすでに入ってくる学生が減ってきていたように記憶してます(曖昧)が、それ以降、在籍学生自体は徐々に減ってきたんじゃないかと。

中にいる学生や教官は特に危機感は抱いていなかったと思うのですが、外から傍観者として見ると、やはり「終わり」は始まっていたのだと感じます。自戒を込めて、やはり外部の人(それが当該ドメインに何の知見もない一般の人であっても)に見てもらうのはとても、とても重要なのだと思います。

ただ、冒頭に書いたように、「終わりはまた別の物語の始まり」なので今後新しい人によって、新たな組織運営がなされることを期待しています。私はもうアカデミズムから離れてしまったので、ときどきキャンパスに散歩に行くぐらいしかできませんが。。。