生きるために必要な本

これまでの人生で写真集というのは数えるほどしか買ったことがありません。数少ないうちの一冊が、これです。

地を這うように―長倉洋海全写真1980‐95 (フォト・ミュゼ)

地を這うように―長倉洋海全写真1980‐95 (フォト・ミュゼ)

 

 20歳になろうとしている私は、この本の新聞広告を見て学校の帰りに買いに行った記憶があります。5000円近くするものですし、写真集なんて買ったことなかったわけで、家族にも「なにかあるの?」と聞かれた記憶があります。でも、特になにかしら理由があったわけではなく、広告を見て「これは見なければ」と強く思っただけでした。

私は高等専門学校の5年生で、大学へ編入しようと思いつつもなかなか勉強に身が入らず、部活動も最後の大会が目の前なのになにか没入しきれない、という状況でした。今、考えると判断して決断しなければいけなかったところ、そこまでの危機感というか、流れに任せるというか、煮詰まってなかったんでしょうね。ただ、何かやらなきゃという焦りみたいなものはあったわけで、なにか自分の中に確固としたものがない、というモヤモヤしたものはあった気がします。

それは、今考えると勇気だったと思います。そして、それこそが大人と子供を分ける唯一の要素だと私は考えています。ともあれ、自分がこの世界で立ち続けるためのなにかを求めて、私はこの写真集を買ったのだと今になってみると思います。

購入した写真集を見ながら衝撃を受けたことは当然なんですが、どういうことを思って、何を考えたのかはあまり覚えていないのが正直なところです。たぶん、圧倒されて呆然としながら写真を見ていたのではないかなと思います。当時購入した写真集は現在も実家にありますが、ヨレヨレになっているので繰りかえし見ていたのにも関わらずこの体たらく。作者の長倉洋海氏に申し訳ないな・・・とも思います。

ただ、その後の私は、人生に対して決断が下せるようになったと思います。大学へ進むにあたり、自分が求めていることを考え、素朴なあこがれとかを切り捨てつつ前へ進むことができたし、あきらめることも含めて決断することができました。困難な道と、ある程度先が見えて平坦な道があったとして、前者を選ぶこともできるようになりました。これは社会人になった今でも、私を形作る大切な流儀だと思います。

この写真集のどこかにそんな力があったのか、それとも私が大人になる時期になにかしらのきっかけになってくれたのか、もう詳しいところはわかりません(自分ではなおさらわからないのかもしれません)。しかし、20歳当時の、なにもかも中途半端で、でもなにかしら自分のモヤモヤした空虚さを埋めるものを求めていた私に、生きる覚悟を与えてくれた写真集だったのだなと。

また、長倉氏と言えば、アフガニスタンの英雄マスードに密着し著した書籍や写真集ですが、マスード亡き後も紛争地帯での写真を撮り続けています。久しぶりに写真集を買ってみようか。。。以下の2つとか。

 

長倉洋海写真集 Hiromi Nagakura

長倉洋海写真集 Hiromi Nagakura

 

 

地を駆ける

地を駆ける

 

 

批判の作法では届かないもの

前回からかなり時間を空けてしまいましたが、いや、なんでしょう。IT業界のゲス代表たる伊藤直也さんの事件などがありまして、ああ、エンジニアでもああいうクズって一定数いるのね~などと思い、同世代のエンジニアとしては若干テンション下がったりしました。

ただ伊藤直也さんのwikipediaを眺めていて、修士論文題目が「物理学科サブネットワークの現状と学科内 LAN 再編成への提言」(伊藤直也 - Wikipedia)とあるわけですね。修士(物理学)として、この内容で学位がとれるというのは如何なものか、なんて思ったりしました。私の母校は工業大学なのですが、工学の修士号はかなりきちんとその分野の研究・論文でなければ学位は出ないのです。私はちょっと文系よりの専攻だったのですが、学位は「修士(学術)」でした。

学生の当時は「その拘りがムカつく」とか思ってたのですが、今、冷静に振り返るとやはりそれは学生に対する教育品質として必要不可欠なものだと思うのですね。青学の先生には拘りがないのかと、それでいいのかと。ここで叫んでおきましょう。

さて、今回の表題は見ての通りですが、簡単に言うと批判する際のお作法としてはある種の正しさ(というかある公理系に依拠することで導出される正しさ、とでも申しましょうか)を根拠にして、相手の文脈なり論理展開を読み解きモデル化し、「だから間違ってる、くだらない」と言うわけですね。大体。

で、この作法はありがちですが、決してくだらないものではない。むしろ、こういうことを自由に言っていき、より好ましい意見が出てくる場が形成されるわけです。これは非常に重要なことです。声を大にして言いたい。これも叫んでおきましょう。

しかし、そのようにして何等かの系に依拠した正しさで測る言説というのは、この世の中のむしろ少数派でしょう。そうではないもの、身体に記憶しているある種のなつかしさや風景みたいなものをなんとか掬い上げ、表現している言説が多いんではないでしょうか。

と、ここまでなかなかに長い前置き(冒頭は関係ないですが)を置いて、今回挙げる本はこれです。

大田舎・東京 都バスから見つけた日本

大田舎・東京 都バスから見つけた日本

 

 バスです。バスガス爆発(不吉)。

おそらく作者に対する印象なのでしょうね。amazonのレビューは二分されています。評価低い人の意見は「これが学者の仕事か」「こんな無神経な人の本は・・・」とか。評価高い人の意見も特に説得力があるわけではありません。例えば「興味がつきない」「自由研究のようで面白い」という感じ。

まぁ、こんなもんですよね。最終的には人格否定に行くのが世の常とは言え、本読んで理解できないのであれば評価を書くなと言いたい。これも叫んでおきましょう。

私はこれ読んでみまして、古市先生のぶらりバスの旅を堪能していたわけですが、大半はただのコラムで雑誌の隙間を埋めるものと言えましょう(これはただの好みで批判じゃないですねー)。

しかし、kindleで読んでるから何ページかはわからないですが「東陽町駅前-若洲キャンプ場前 新木場に残る20世紀の思い出」と題された小文には心動かされた、と言いますか、心にさざ波が立ったと言いますか、自分の記憶の深く懐かしい部分に触った気がしました。

冒頭はこのような文章から始まります。「原風景というものがある。子供の頃に訪れた場所。なぜかいつも夢で見てしまう景色。なぜか忘れられない光景。僕にとってのその一つは東京湾岸にある。」(前掲書、kindle上 No.814/3252 より引用)。いやー、先生、こんな感傷に訴える文章を書いてしまうなんてスゴい。いい意味で驚きです。

おかげで自分にとって夢で見てしまう、懐かしい、記憶に刻み込まれた風景というのをぼーっと思い返してしまいました。古市先生の原風景というのは、整備されていない、人口物で構成された殺風景でありつつ、魚釣りをしたり、周りにいないタイプの老人がいたりする湾岸の風景らしい。

私は九州の生まれで、最初に東京に来たのは大学の編入学試験(夏)でした。羽田からモノレールに乗り、京浜東北線大井町まで行くと、そこにあるホテルに泊まって試験を受けに行きました。大井町線沿いにある大学でしたので。

それを3年くらいやったので、私の東京の原風景というのは、モノレールから見る埠頭、運河沿いのオフィスビルやマンション、倉庫街、浜松町の古くて巨大なビル、そして大井町の雑多で狭い飲食街です。今でもときどき大井町に行くと、あのときの不安と路地裏の居心地の良さに懐かしさを覚えます。

で、この本に話を戻すと、読む人自身のそういう普段は思い出さないけれども、ときどき不意に表出する原風景みたいなものに思いを馳せるという本なんですね、たぶん。そういう本には論理を媒介にした批判の作法などは合わないなぁ、、、とamazonの書評を見ながら思い至りました。

というか、古市先生の言説というのは、結構な割合で、論理的に批判できるようなものではないのかもしれませんね。そういう姿勢に対して好き嫌いがあるとは思うのですが、僕は割と好きですねぇ。

父と子の物語(3、路地の子)

上原善広の新刊が出たとのこと、HONZの仲野徹さんの書評(http://honz.jp/articles/-/44135)を読んで知ったのですが、個人的には、上原さんの本としては、静かでなにか温かみのある感覚を覚えました。

そして、仲野さんの「絶対にあとがきから読んではいけない本」という忠告をありがたく受取り、前から順に読んでいきました。私は結構あとがきから読んでしまうので、これは今から思えば非常にありがたがったです。

本の内容についても、仲野さんの書評を読んでいただくのがわかりやすいです。ので、ここは「父と子の物語」という観点から感じたポイントを思うままに書いてみます。

路地の子

路地の子

 

 仲野さんも書かれている通り、上原さん自身の父に対する思いというのはあとがきに書いてあります。この部分はこの本の根幹、このあとがきを書くためにこの本は書かれた、いやむしろ、このあとがきに至るために作家としてものを書いてきたのではないかというほどの内容になっています。

なので、そこには触れませんが、冒頭に書いたように上原さんの他の本に比べて、「静かで温かみがある」と感じました。書かれている上原龍造さん(著者の父)の生きざまはなかなか激しいものです。それなのに、文章から静けさを感じられるのは、なにか愛情というか照れというかが奥底にあるということなのかなと。

途中、龍造さんについて「自分勝手で他の人間を非難するが、同じことをしている自分の影響へ思い至ることはない」ということに何度か言及します。この感覚、私は非常によくわかるというか、自分の父に対して思っていたことそのままです。私自身も「ああいう人間にはならない」と思って、その当時(10代)は思っていました。

今から考えるとその後、私は父親のある部分を非常に色濃く受けついで生きていて「ああいう人間になってる」のですね。この辺の自覚は上原さんと全く同じものです。私の場合は、4年前に父が死んでから特に、この側面を強く意識するようになってます。そして自分がかくありたいと思う人間として、自分の父を想定するようになってきました。もちろんすべての面でというわけではありませんが、人に対する基本的な愛情の熱量がある、自分勝手ではあるけれど自分の原則があって曲げない、他の分野の人の言葉は素直に聞く耳を持つ、、、その辺りです。

、、、今、列挙してみて驚いたのは、上原さんがあげた龍造さんの長所とかなりダブっているんですね。私の父は団塊の世代よりほんの少し下なのですが、人となりが良く似ています。あんなに短気で暴力的ではなく、どちらかというと職人肌の頑固者ですけど。

ま、こう思うのは、私の父がすでに死んでいるからかもしれません。生きている間は、そうはいってもやはり喧嘩して、遠ざけてしまうことも多かったです。上原さんも龍造さんが亡くなると、またちょっと変わってくるのかなとも思いますね。

私自身は子供が2人いて、下の子が男の子なのですが、彼に何を伝えられるのか、若干不安なところはあります。上原さんも私もそうですが、父親が現場で働く姿を見ている。それは記憶に刻み込まれていて、自分にとっては今でも強さを感じさせる大人というとその姿なんですね。

私の子どもが見る、私の働いている姿というのは、ラップトップを膝の上において、うーんうーんと悩みながらタイプしているところでしょう。きっと働いている私を見ることはあまりないのだろうなと思います。あんまり父の背中を見せることはできないな、会議しているところを見ればちょっと違、、わないかな。

でも、彼は彼なりに何かを感じて成長していくのでしょう。私は私ができる精いっぱいをやり続けていくしかない。きっとそれでいいんだろうなと思うのです。

吉本隆明の言葉

ほぼ日には「今日のダーリン」という糸井さんの日記のようなものがトップに掲載されています。本日(6/19)の内容は、吉本隆明が子供に言った言葉がテーマになってます。それは、

「人といるとき、だれより低いものでありなさい」

というものですね。これは10代のころに私自身もどこからか聞いたことがあります。吉本ばななさんが父からの教えで心に残っているもの、というようなテーマで回答していたものだった記憶があります。当時、創刊されたばかりの「ダ・ヴィンチ」はよく読んでいたので、たぶんそれのインタビューだったような気がします。当時も今も吉本ばななさんの小説は読んでませんので、、、でも吉本隆明は知ってたんだなー。

この言葉には当時、私自身も感じるところがあったようで、何かしら人が集まって相談するときには、もっとも弱い立場の人はだれなのかを考えて発言しようと思い始めたのだと思います。今となっては、いつからそういう考え方の癖がついたのか思い出せないのですが、たぶん二十歳頃にはそうなっていた記憶があります。

ただ、この考え方は自分の目線をその場で一番弱い立場の人に合わせるということで、前提として「自分は一番弱い立場ではない」というのがある気はします。戦う人に対して心に刻んでほしい言葉ではありますが、自らが最も弱い立場になったときには、また別の度量として「素直に他人に助けを求める」ということが必要なのでしょう。

ただ、まぁ、自分がそうするかというと、、、やっぱ人間ができてないんだろうなと思うんですが、一人でなんとかしようとするはずですね。それでいいんじゃないかとも思うし、何も正しく生きる必要はなく、自分ができるやり方で生き尽くせばいいのではないかと。現在40歳の私はそう思っています。

セッターに必要なものは勇気である。

久々にNumberでバレーボール関係の前向きな記事を読みました。

number.bunshun.jp

これまでの正セッターであった深津選手(彼はこのチームのキャプテンでもあります)を差し置き、今季のワールドリーグからスタメンで出ている藤井選手を中心にした記事です。

バレーボールというのは、試合のテンポ的に野球に似ていると思います。これは日本のバレーボール人気を考えるいいきっかけだと思いますが、ボールの配球という意味で野球のキャッチャーとバレーボールのセッターはよく似てます。

かくいう私も中学自体にバレーボールをやっておりまして、ポジションはセッターでした。このポジションは他のポジションと比べると専門性が高くて、他のポジションならどこでもできる人でもセッターはなかなかできないものなのですね。これは主に技術的な側面が大きいのですが、メンタル的なところでもなかなか難しいようです。

今回の記事では、藤井選手のトスワーク、特にセンターのクイック中心に攻撃を組み立てていく部分を取り上げています。センター中心に使うことによりここにブロッカーの注意を引き寄せて、端っこからの攻撃(いわゆるウイングスパイカーのアタック)へのブロッカーの一歩目を遅らせる効果があります。ウイングスパイカーはブロック2枚ではなく、1.5枚を相手にすればよくなるわけで試合終盤までフレッシュな状態で戦えることになります。

一方で、これはセンターを軸に攻撃を組み立てるので、ある程度の確率でセンターのクイックはブロックされるわけです。Aクイックのような早くて基本的な攻撃は、ブロックされると失点に直結するものです。それを受け入れて、ブロックされてもクイック攻撃を継続するには、セッターにチームへの信頼感と勇気が必要です。

…とまぁ、ここまでは当然の至極当然のことを語ってきたわけですが、ここからは実際にセッターをやっていたものとしての偽らざる想いを吐き出したいと思います。

特にセンターを使い続ける勇気について。

中学時代の私にはこの勇気はありませんでした。これは、正直な感想です。Aクイックをあげてシャットアウトされるのが怖かったのですね。Aクイックでシャットされたら、アタッカーに責任はありません。アタッカーにブロックをよけるだけの余裕はないので、そこを選択したセッターの責任です。それはだれの目にも明らかなことなのですね。

それを自分の選択の間違いとして、絶対に失敗しない選択をすると自分に非がない、アタッカー自身である程度対応の余地があるウイングスパイカーのアタックを選択してしまうのです。しかし、それではウイングスパイカーが疲弊してしまう。結局、チーム全体としては接戦になればなるほど弱くなる。失敗しない、負けないことではなく、勝つためにチームとしてどういう戦術を取るのか、それにはどの程度失敗が許容されるのか、これらを話しておくことが必要なんですね。

シャットアウトされたとしてもそれをある程度しょうがないこととして受け入れ、切り替え、次のプレーに臨む。それには信頼関係が必要です。また、小さな失敗を受け入れながら、大きな失敗を回避するという姿勢を継続するには、勇気が必要です。

自分には勇気がない。

中学時代のプレーを振り返って、そう思えるようになったのは、数年経ってからでした。認めたくない気持ちがありました。なかなか難しかったですね。

セッターは勇気がなければ務まらない。早く正確なトスアップだけでは、チームを勝利に近づけることは到底無理です。それを思い出した、この記事でした。

彼を知り己を知れば百戦殆からず。レアル、連覇なる。

6/3夜、レアル・マドリーがCL史上初の連覇を成し遂げました。ユーべファンの私としては、後半途中から見るのがつらかったですが…、ファイナルですしマドリーも嫌いなチームではないので、最後まで見ました。

最新のfootballistaでも特集されていた通り、今、ヨーロッパサッカーを見るときには戦術に焦点があたることが多いです。ひと昔前は4-2-3-1が標準的なフォーメーションでしたが、ジョゼップ・グアルディオラによる圧倒的な戦績を背景にした戦術のトレンドがいくつも押し寄せました。フォーメーションについては試合が始まる前の配置など重要ではなく、あるポジションの選手がどの範囲をカバーするのか、ディフェンスの局面では攻めてくる相手にどうアプローチするのか、チームとして守から攻に転ずるやり方をどう定義するのか、などいろいろとテーマがあります。結果的には、今、(ある程度のトレンドを追いながらも)それぞれのチームが己の頭で考えた結果、戦術はそのチーム独自のものになってきています。

月刊フットボリスタ 2017年6月号

月刊フットボリスタ 2017年6月号

 

サッカーを見る我々にとっても、どのような戦術をとっているのか、どこに強みがあり弱みは何か、選手はフィットしているのか、などを考えるようになってきています。これはこれで面白く、私もそのような感じです。

ただ、サッカーは所詮ピッチ上でタレントを持っている選手の集団が織りなすゲームであって、組織や戦術を超えた魔法を彼らは元来持っているものです。どうしても戦術に集中してしまうとサッカーの見方が偏ってしまう、戦術は選手の強みを最大限に発揮する助けになるものであって、それ以上ではないはずですが、そのことを忘れてしまうことが最近は多い。選手が歩んできた道のり、それを背景にしたその選手のスタイル・勝負強さ・タレントを軽視してしまうのですね。選手へのリスペクトが足りないのではないかという気がします(主に自分に対して)。

今期のCL決勝はレアル・マドリーユベントスの組み合わせでした。ユベントスは相手がどんな戦術であろうと美しいフォーメーションを保ちながら守り、攻めに転じると真ん中のショートカウンター、または、最前線に選手を張った状態で相手を押し込みつつ点を取りきるチームですね。レアル・マドリーは、結構低い位置からカウンターとか、前線のスペースに走りこんで点を取る形で、ディフェンスはアンカーの選手を中心に堅い。

試合前は、監督の采配がキーになると予想し、応援するユベントスが僅差で勝つ(願望)と信じていました。試合に入ると、中盤の構成力といつも通りの攻撃ができているレアルと、自慢の守備が結構切り裂かれているユベントス(いつも以上に攻めてはいました)という構図が垣間見えて、ハマったら何点取られるかわからないな、、、と思いました(ユベントス目線)。

結果、予感はあたり、後半にユベントスは蹂躙されまして、文字通りの完敗でした。レアル・マドリーの方が戦術的に上回ったかというとそんなことはない。ユベントスの方が戦術・試合展開まで練りに練った試合の入り方だったと思います。

レアル・マドリーはそうではなかった。彼らは大まかにユベントスの特徴を把握し、自分たちのやり方を確認し、あとは選手自身の能力で試合に臨んだ。相手を深く分析し、相手に合わせて最適な戦術を取るのではなく、自分たちは最高の選手がそろっているのだから、自分たちの強みを出せればよい。それを出すために相手の特徴を把握する。後は、試合の中で選手自身が突破口を見つける。

選手自身のタレントを信頼して、そこを突破口にする。そのために相手を調べる。これは表題の通り「彼を知り己を知れば百戦殆からず」そのものです。戦術をもった監督を連れてきて、その戦術に合う(割安な)選手を連れてきて成績をあげる、というのはリーズナブルでいい方針です。ただし、それでは継続的な覇権を握ることはできないのではないか。

レアル・マドリーがヨーロッパの覇権を握り続けてきたのは、まず第一に最高の選手をそろえる、という根本の方針が新たに出てくる戦術を凌駕し続けたということなのではないか。

そんなことを考えながら、表彰式を呆然と見ていました。

「終わりの始まり」という状況は、周囲からはハッキリ見える。

「終わりの始まり」というキーフレーズは、物語の中ではよくぶち当たるものです。バランスと秩序を保っていた状況が崩壊していく暗示としてよく用いられます。もしくは、順調に育ってきたものがその成熟段階を終えて、収束に向かうときとかですねー。

40年も生きてくると、社会人としていろいろな組織に(私は結構会社変わってるので)属してきまして、そういう感慨を抱くこともありました。まぁ、あんまり良い状況ではないですね。ただし、崩壊することで新しく生まれ変わることができるわけでもあり、これはやはり希望なんですね。

ということを最初に書いておきつつ、そんな「終わりの始まり」の景色というのは当事者にはあんまり見えないものなんだなということを書いてみます。ちなみに、今回は読書は関係なく、私が昔在籍していた大学の研究室の話です。読書日記なのに。。。

私はもともとは工学部のとある学科を卒業したのですが、ちょっと違う方面(ある種の歴史とか哲学)の大学院へ進学しまして、修士課程を修了した後、就職して働き始めました。大学院の専攻は特に学部の専攻とも違うし、現在の職種(システムエンジニア)とも関係ありません。ちょっとマイナーな学問ではありました。講座には研究室(教授 or 准教授1人が1つの研究室をもつ)が5つあり、院生は総計で15~16人くらいでした。院生は全員1つの院生室にいて、ほとんど同じ授業に出て、ゼミは個別の研究室でやっていた感じです。

当時は、2年連続で4人が入ってきたこともあり(私含め)、人が多くなってきて盛り上がってきた感じでした。ただし、他分野出身の学生ばかりで研究への姿勢含めバラバラな人たちの集まりで、ひどく雑多な印象がありました。私はそういう雰囲気がすごく好きだったのですが。。。既にある程度の研究実績があり、本格的に研究をしようとしている人にとっては、ハイレベルの会話が院生室でできないというのはストレスだったのだろうと思います。

それから10年弱経ってから、研究室内の定期報のようなものを読ませてもらったのですが、そこには以下のようにありました。「数年前と比較して、最近の院生には各個人のレベルが上がっている、授業への出席率が高い、院生室の滞在率が高い。院生室での議論も専門性が高まり結果的に質の高い議論ができる環境になってきた」という内容でした。

私自身がそのようなポジティブな貢献ができる院生ではなかったので申し訳なかったなと思いつつ、純粋にうらやましいなという感覚も覚えました。まぁ私自身は、もっと雑多で専門性が多少低くてもいろんなバックグラウンドの人がいたほうが過ごしやすいと感じていたので、私にはつらくなってきたなと思ったことも記憶しています。

ただ、「これは終わりの始まりだな」というのも思いました。マイナーな学問であったこと、ほとんどの学生は大学院からこの学問を本格的に始めることを考えれば、院生室の各個人がこの学問に十分馴染んでレベルが高くなっていて、質の高い議論ができる快適な空間になっている、というのは人が入ってこなくなったことが背景としてあり、他分野から入る際のハードルも高くなっていると考えられます。

「こんなに活発に活動している、レベルの高い議論をしている我々の研究室に参加しませんか?」というのが響くのは、その分野自体が盛り上がっているときであって、ただそういうタイミングは何もしなくても人は集まるんですよね。テーマとして人が集まらなくなった場合に、さてどう誘うかというのはやはり入りやすさの仕組みを充実させるのが王道です。

今は、そもそも常勤スタッフが減ったこともあり、学生はかなり少なくなっています。上記のメモの時期はすでに入ってくる学生が減ってきていたように記憶してます(曖昧)が、それ以降、在籍学生自体は徐々に減ってきたんじゃないかと。

中にいる学生や教官は特に危機感は抱いていなかったと思うのですが、外から傍観者として見ると、やはり「終わり」は始まっていたのだと感じます。自戒を込めて、やはり外部の人(それが当該ドメインに何の知見もない一般の人であっても)に見てもらうのはとても、とても重要なのだと思います。

ただ、冒頭に書いたように、「終わりはまた別の物語の始まり」なので今後新しい人によって、新たな組織運営がなされることを期待しています。私はもうアカデミズムから離れてしまったので、ときどきキャンパスに散歩に行くぐらいしかできませんが。。。