彼を知り己を知れば百戦殆からず。レアル、連覇なる。

6/3夜、レアル・マドリーがCL史上初の連覇を成し遂げました。ユーべファンの私としては、後半途中から見るのがつらかったですが…、ファイナルですしマドリーも嫌いなチームではないので、最後まで見ました。

最新のfootballistaでも特集されていた通り、今、ヨーロッパサッカーを見るときには戦術に焦点があたることが多いです。ひと昔前は4-2-3-1が標準的なフォーメーションでしたが、ジョゼップ・グアルディオラによる圧倒的な戦績を背景にした戦術のトレンドがいくつも押し寄せました。フォーメーションについては試合が始まる前の配置など重要ではなく、あるポジションの選手がどの範囲をカバーするのか、ディフェンスの局面では攻めてくる相手にどうアプローチするのか、チームとして守から攻に転ずるやり方をどう定義するのか、などいろいろとテーマがあります。結果的には、今、(ある程度のトレンドを追いながらも)それぞれのチームが己の頭で考えた結果、戦術はそのチーム独自のものになってきています。

月刊フットボリスタ 2017年6月号

月刊フットボリスタ 2017年6月号

 

サッカーを見る我々にとっても、どのような戦術をとっているのか、どこに強みがあり弱みは何か、選手はフィットしているのか、などを考えるようになってきています。これはこれで面白く、私もそのような感じです。

ただ、サッカーは所詮ピッチ上でタレントを持っている選手の集団が織りなすゲームであって、組織や戦術を超えた魔法を彼らは元来持っているものです。どうしても戦術に集中してしまうとサッカーの見方が偏ってしまう、戦術は選手の強みを最大限に発揮する助けになるものであって、それ以上ではないはずですが、そのことを忘れてしまうことが最近は多い。選手が歩んできた道のり、それを背景にしたその選手のスタイル・勝負強さ・タレントを軽視してしまうのですね。選手へのリスペクトが足りないのではないかという気がします(主に自分に対して)。

今期のCL決勝はレアル・マドリーユベントスの組み合わせでした。ユベントスは相手がどんな戦術であろうと美しいフォーメーションを保ちながら守り、攻めに転じると真ん中のショートカウンター、または、最前線に選手を張った状態で相手を押し込みつつ点を取りきるチームですね。レアル・マドリーは、結構低い位置からカウンターとか、前線のスペースに走りこんで点を取る形で、ディフェンスはアンカーの選手を中心に堅い。

試合前は、監督の采配がキーになると予想し、応援するユベントスが僅差で勝つ(願望)と信じていました。試合に入ると、中盤の構成力といつも通りの攻撃ができているレアルと、自慢の守備が結構切り裂かれているユベントス(いつも以上に攻めてはいました)という構図が垣間見えて、ハマったら何点取られるかわからないな、、、と思いました(ユベントス目線)。

結果、予感はあたり、後半にユベントスは蹂躙されまして、文字通りの完敗でした。レアル・マドリーの方が戦術的に上回ったかというとそんなことはない。ユベントスの方が戦術・試合展開まで練りに練った試合の入り方だったと思います。

レアル・マドリーはそうではなかった。彼らは大まかにユベントスの特徴を把握し、自分たちのやり方を確認し、あとは選手自身の能力で試合に臨んだ。相手を深く分析し、相手に合わせて最適な戦術を取るのではなく、自分たちは最高の選手がそろっているのだから、自分たちの強みを出せればよい。それを出すために相手の特徴を把握する。後は、試合の中で選手自身が突破口を見つける。

選手自身のタレントを信頼して、そこを突破口にする。そのために相手を調べる。これは表題の通り「彼を知り己を知れば百戦殆からず」そのものです。戦術をもった監督を連れてきて、その戦術に合う(割安な)選手を連れてきて成績をあげる、というのはリーズナブルでいい方針です。ただし、それでは継続的な覇権を握ることはできないのではないか。

レアル・マドリーがヨーロッパの覇権を握り続けてきたのは、まず第一に最高の選手をそろえる、という根本の方針が新たに出てくる戦術を凌駕し続けたということなのではないか。

そんなことを考えながら、表彰式を呆然と見ていました。

「終わりの始まり」という状況は、周囲からはハッキリ見える。

「終わりの始まり」というキーフレーズは、物語の中ではよくぶち当たるものです。バランスと秩序を保っていた状況が崩壊していく暗示としてよく用いられます。もしくは、順調に育ってきたものがその成熟段階を終えて、収束に向かうときとかですねー。

40年も生きてくると、社会人としていろいろな組織に(私は結構会社変わってるので)属してきまして、そういう感慨を抱くこともありました。まぁ、あんまり良い状況ではないですね。ただし、崩壊することで新しく生まれ変わることができるわけでもあり、これはやはり希望なんですね。

ということを最初に書いておきつつ、そんな「終わりの始まり」の景色というのは当事者にはあんまり見えないものなんだなということを書いてみます。ちなみに、今回は読書は関係なく、私が昔在籍していた大学の研究室の話です。読書日記なのに。。。

私はもともとは工学部のとある学科を卒業したのですが、ちょっと違う方面(ある種の歴史とか哲学)の大学院へ進学しまして、修士課程を修了した後、就職して働き始めました。大学院の専攻は特に学部の専攻とも違うし、現在の職種(システムエンジニア)とも関係ありません。ちょっとマイナーな学問ではありました。講座には研究室(教授 or 准教授1人が1つの研究室をもつ)が5つあり、院生は総計で15~16人くらいでした。院生は全員1つの院生室にいて、ほとんど同じ授業に出て、ゼミは個別の研究室でやっていた感じです。

当時は、2年連続で4人が入ってきたこともあり(私含め)、人が多くなってきて盛り上がってきた感じでした。ただし、他分野出身の学生ばかりで研究への姿勢含めバラバラな人たちの集まりで、ひどく雑多な印象がありました。私はそういう雰囲気がすごく好きだったのですが。。。既にある程度の研究実績があり、本格的に研究をしようとしている人にとっては、ハイレベルの会話が院生室でできないというのはストレスだったのだろうと思います。

それから10年弱経ってから、研究室内の定期報のようなものを読ませてもらったのですが、そこには以下のようにありました。「数年前と比較して、最近の院生には各個人のレベルが上がっている、授業への出席率が高い、院生室の滞在率が高い。院生室での議論も専門性が高まり結果的に質の高い議論ができる環境になってきた」という内容でした。

私自身がそのようなポジティブな貢献ができる院生ではなかったので申し訳なかったなと思いつつ、純粋にうらやましいなという感覚も覚えました。まぁ私自身は、もっと雑多で専門性が多少低くてもいろんなバックグラウンドの人がいたほうが過ごしやすいと感じていたので、私にはつらくなってきたなと思ったことも記憶しています。

ただ、「これは終わりの始まりだな」というのも思いました。マイナーな学問であったこと、ほとんどの学生は大学院からこの学問を本格的に始めることを考えれば、院生室の各個人がこの学問に十分馴染んでレベルが高くなっていて、質の高い議論ができる快適な空間になっている、というのは人が入ってこなくなったことが背景としてあり、他分野から入る際のハードルも高くなっていると考えられます。

「こんなに活発に活動している、レベルの高い議論をしている我々の研究室に参加しませんか?」というのが響くのは、その分野自体が盛り上がっているときであって、ただそういうタイミングは何もしなくても人は集まるんですよね。テーマとして人が集まらなくなった場合に、さてどう誘うかというのはやはり入りやすさの仕組みを充実させるのが王道です。

今は、そもそも常勤スタッフが減ったこともあり、学生はかなり少なくなっています。上記のメモの時期はすでに入ってくる学生が減ってきていたように記憶してます(曖昧)が、それ以降、在籍学生自体は徐々に減ってきたんじゃないかと。

中にいる学生や教官は特に危機感は抱いていなかったと思うのですが、外から傍観者として見ると、やはり「終わり」は始まっていたのだと感じます。自戒を込めて、やはり外部の人(それが当該ドメインに何の知見もない一般の人であっても)に見てもらうのはとても、とても重要なのだと思います。

ただ、冒頭に書いたように、「終わりはまた別の物語の始まり」なので今後新しい人によって、新たな組織運営がなされることを期待しています。私はもうアカデミズムから離れてしまったので、ときどきキャンパスに散歩に行くぐらいしかできませんが。。。

仕事を変えるときに、誰に相談するか。

おはようございます。システムメンテナンスのため、家に帰れず会社でダラダラしてました。無事に終わって安堵しています。

そんな状況だからではないですが、何することもない時間にこれまでの転職のことを考えておりました。私自身は数回会社を変わっていますが、一貫して情報システムに関わる職についています。ただ、役割とか立場、どういうシチュエーション(大規模構築プロジェクトか、既存の運用保守メインか、恒常的な新規開発の連続か、とか)で働くのかについてはいろいろと変えてきています。

簡単に言うと、職種はちょっとずつ変わっているわけですが、そんな小さな変更でもやはり慣性というのは恐ろしいもので、変更を妨げる方向へ働くのですね。特にプライベートでの近しい人や同僚についてはそのような傾向が強いです。自分自身で変化を求めたいと思うとき、適切な相談相手というのは意外と難しいのが私の経験則です。

それほど親しくはないんだけど、自分のスキル・実力はある程度わかっていて、尚且つ他人事として私に向き合って客観的で予想外な可能性をポロっとこぼしてくれる人、というのが理想の相談相手になります。

この辺りの考えを最初に私に提示してくれたのが、「ハーバード流 キャリアチェンジ術」という書籍です。

ハーバード流 キャリアチェンジ術

ハーバード流 キャリアチェンジ術

 

 ちょっとタイトルが仰々しいというか、いたずらに流行りを追っている感じがしますが、中身は文句なしに素晴らしい書籍です。それまでとは異なる職へキャリアチェンジした数十名の事例から成功するための条件を抽出しているのですが、「自分が何をやりたいか考えてキャリア計画を考えてから行動するという従来の考え方では成功は難しい。必要なのは、計画や考えることよりも、行動を重視するアプローチ」という考えが提示されます。

またAmazonの商品説明にもあるように「過去と現在のアイデンティティーの板挟みに悩む「過渡期」を支えるのは、古くからの友人や前職の仲間ではない。今までのキャリアから乗り換えるにあたり、「強いきずなは視界を奪う」」という主張はまさにその通りですね。本書の事例からは、「新しく出会ったばかりの、弱くてもろい関係性にある友人」こそがこの期間のキーパーソンであることがわかります。

田舎から都会に出てきている人にとっては(私もそうですが)、地元の親や親戚もこれにあたるはずなのですが、「大きな企業に入って定年まで勤め上げるべき」的な観念の人も(特に今の60歳以上には)多い考え方なので、難しいのでしょう。幸い、私の両親は自営だったし、「没頭できる仕事に移ればいいんじゃない」的な感じだったので、そんなことは言われませんでしたが…。

何回か転職活動をしてきて感じるのは、何回か面接を重ねてみないと自分の市場価値、それを踏まえたできることとやりたいことは明確にならない、ということです。合格と不合格がある試験ではなく、個々の企業との対話を通して今の市場を把握し、自分をどこに置いて価値を出すかのすり合わせですよね。大きく言っちゃうと、市場とのすり合わせというのが転職活動の本質だと思います。

だから面白いと思うし、定期的にやってしまうのかもしれないですね。なので、個人的には、転職したことない人、転職していても友人の引きで厳しい活動を経ずに移ってしまう人については、まだ「大人」になっていない人という印象ですね(もちろん自分で会社を立ち上げる人は、これよりも厳しい経験をしているので当然「大人」です)。

自分という商品単体で社会とコミュニケーションして、ある企業に買ってもらうというのは素晴らしい経験です。これは一度はやっておいた方が良いと思います。

 

時々読み返したくなる本

というわけで、保坂和志カンバセイション・ピース」です。

 保坂和志の小説というのは、まぁ、小説という以外ないのですが、日常のいろいろと散らばりがちな思考の流れを書き連ねられていて、ある時点からある時点までを切り取るとその流れが実は物語になっていたり(いなかったり)するようなものだと思います。これを小説というのか、いやこれこそが小説であって原初の小説はこのような形態から始まったはず、つまり由緒正しい小説であるという気もするのですね。

そういう側面をとらえると、全然違う小説ではあるものの町田康の小説とも同じようなスタイルであるとも思います。まぁ、だからどうしたって感じですね~。

さて、この小説の内容ですが、完全に忘れておりまして、何が書かれてたっけな?主人公と奥さんが世田谷の古い家に住んでて、猫とか家とか人とかの記憶とかそれ以外について語っている感じだったと思います。いや、それは「季節の記憶」か?

季節の記憶 (中公文庫)

季節の記憶 (中公文庫)

 

 でも、だいたいそんな感じだったと思いますね。

保坂和志の小説には必ず猫が出てきて、猫がいる生活を懐かしむというのはあります。実家(九州の田舎の方)に住んでいたころは、家に猫がいて、その猫を通じた家族のやりとりというのがあって、必然的に家族の記憶にまで思いを馳せるということになる。そういうものを結局は、定期的に求めてしまうものなのかと。

これ、一般的ではないのでしょうが、私自身はそういう感覚があります。

内容もあまり覚えていない、特に物語があるわけではない、でもそこに記憶と思考が詰まっていてときどき読み返したくなる、そういう小説ですね。

昔、私自身も「今、この瞬間に考えている子の思考を何かにのこしておきたい」と思ってメモとかいろいろ取ってたりした時期がありました(いや、嘘つきました、今でもそうです)。ただ、これはなかなかうまくいかないです。技術も必要だし、思考をすぐに忘れずに記録する思考的体力が要求されます。これはやり切れないのですよね。

保坂和志の場合は、何度も何度も同じことを考えることができる、だから書く段になって考えてそれを記録していくことができるのかなと。思考的な体力がすごくあるのだと思っています。

また読みたくなってきたなぁ。

疲れてゆっくりしたいんですよ。

最近、仕事そこまで大変ではないのですが、ダレてきたんですかね。もう表題のとおりで疲れて何も考えたくない。父と子の物語シリーズも中休みでそんな本読んでも疲れてしまうんじゃ~、という状況です。

そこで、なんか疲れてもやもやして何も考えたくないときに、読む本を(自分自身の備忘のため・・・)メモ。

聖なる怠け者の冒険 (朝日文庫)

聖なる怠け者の冒険 (朝日文庫)

 

 森見登美彦「聖なる怠け者の冒険」でございます。物語る著者の声がふんだんに出てくるこの小説、森見登美彦のいつもの柔らかく濃密で、深い意味はない(と思わせる)設定と物語、読者をリラックスさせつつ夢中にさせる素晴らしい小説です。

なんかあんまり褒めてないようにも聞こえますが、私はここ数日のなにか追い立てられているような感覚から抜け出し、気持ちをリフレッシュすることができました。いやーぼかぁ幸せだな~。

内容的には、京都で活躍する正義の味方ぽんぽこ仮面と、ぽんぽこ仮面にしつこく跡継ぎを迫られる小和田君、それに彼を取り巻く先輩社員や探偵などが、ある宵山の土曜日一日に繰り広げる大冒険、みたいな話です。ただし、悪い人は一人も出てこないのがこの著者の話の特徴なんですかね。普通に見たら悪い役割の登場人物も魅力的で憎めない、これは著者が影響を受けている江戸川乱歩の作風と似ているような気がします。あれも別に悪い人出てこないもんなー、あんまり。あーでも「何者」とかの犯人は、ちょっと悪い奴だったりした記憶があるな。

この著者ならではの堂々たる至言があちこちに散らばっているのも、ポイント高いですね~。例えば「迷うべきときに迷えるのは才能」とか、「役に立とうなんて思い上がりです」だとか。後者については、この文庫本に著者直筆(!)のメッセージとしてカードがついていました(Kindleではなく、文庫本を買った理由の一つでもあります)。

あと、この本はもともと新聞小説で(だから朝日文庫なんですな~)、新聞小説→単行本→文庫本という変遷をたどっているわけですが、それぞれのタイミングで大幅な加筆修正がされているらしく、最初と最後では結構違っているようなことが著者あとがきに書いてあります。

とくに違いをおっかけるようなやる気もないのですが(疲れてゆっくりしたいわけですし)、新聞小説連載時に挿絵を描いておられたイラストレーターの方が、この小説の画集を出しているようです。

聖なる怠け者の冒険【挿絵集】

聖なる怠け者の冒険【挿絵集】

 

これは買いですね。

この挿絵はめちゃくちゃ小説にフィットしている、、、いやむしろ逆で、この挿絵が小説を先導しているといっても過言ではないです。著者あとがきでも、話が全然決まっていない段階で挿絵を描いてもらい、そのキャラクターのイメージから内容ができてきた側面もあるようです。

Kindle版載せちゃったけど単行本もありますから、是非とも単行本をゲッツしたいですね。

そんなわけでゆっくりできました。ぼかぁ幸せだなぁ~。

父と子の物語(2、血と暴力の国)

父と子の物語シリーズ、その2ではコーマック・マッカーシー「血と暴力の国」でございます。

血と暴力の国 (扶桑社ミステリー)

血と暴力の国 (扶桑社ミステリー)

 

原題は「No country for old men」で、映画版も同じタイトルですね。日本語版は若干省略されて「ノーカントリー」になってましたが。。。 

ノーカントリー スペシャル・コレクターズ・エディション [Blu-ray]

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 内容的には、クスリの取引でどっかのマフィアが争いのなったところを遠くから見てた男性が金を持ち逃げして、殺し屋に追われるというお話し。この殺し屋を追う保安官がトミー・リー・ジョーンズでどちらかというとわき役なんですが、なかなかいいキャラクターで終章は彼の独白で終わります。で、ここに父と子の物語がある。そこ以外には特に親子の話ってないのですが、何かしら血は水よりも濃いところを感じさせる小説ではあります。

で、父と子の話としては、読んでいただくしかないのですが、映画でもほぼそのままの独白があるので、こちらも味があっていいなと思っています。かいつまんだ内容としては、「夢の中で父親が出てきて、一緒に山を登っている。父親は先に行っているのだが、山の途中で待っていてくれる。それがわかるんだ」という話です。まーこれだけじゃわからないので、実際に本を読んでもらう必要がありますが、私としてはじわっとくる話でした。

もともとコーエン兄弟の映画はよく見る方です。好きな映画はファーゴです。ノーカントリーもその文脈で映画を見て、原作を読んで、どちらもかなり好きな部類に入るので繰り返し見たり読んだりしてます。コーエン兄弟というと、コミカルな悪夢をスタイリッシュに描くって感じのイメージが一般的なんでしょうか。私にとってはどちらかというと、結構、真正面から自分の無意識を直撃する映画というイメージです。なので、夢なんだけど超リアルというもの、なので映画そのものなのですね。

そんなコーエン兄弟の映画で、父と子の話が出てきて、それが自分の父親と自分の関係を思うときの重要なイメージになる。これは自分にとってはすごくうれしいことだし、自分の拠り所である父親像にもつながっているような気がします。

誰かとの話で「男にとって父親というのはヒーローである」というテーゼを主張したことがあります。話相手は「自分は違う」と否定していましたが…。その辺りの信念を型づくった物語のひとつですね。

そんなわけでおススメです。ちなみにマッカーシーのこの後の作品が「ザ・ロード」でこちらが「父と子」の話としては王道です。なぜこちらを紹介しないのかといえば、未読だからです(ドーン)。言い訳をすると、私は4年前に父が死んでからどうも父と息子系の話に涙腺が弱いので、時間を置きながらそれ系の小説を読んでいるんですね~(涙)。心の底から読みたいと思っています。マッカーシーは現代のアメリカ文学界ではやっぱり外れがないので。

それでは、まだシリーズを続けます。次は何にしようか。。。

父と息子の物語(1、戸村飯店青春100連発)

最近なんだか書くことがないんだか、時間がないんだか、余裕がないんだかで書けておりませんでした。はてなから「そろそろブログ書きませんか」みたいなリマインダーも来たことだし、ここらで何か書いてみようかと。

家では洗濯業務を仰せつかっている私ですが、花粉症でもあるため、春は外に洗濯ものを干さず、もっぱら室内干しとなっております。2階のいろいろとモノを置いている部屋(将来は子供部屋)で干してるのですが、そこには本棚もあったりして、洗濯ものを干し終わると本を読みふけったりします。

特に会社でいろいろとすったもんだで大変な時ほど、そういうことに心の安らぎを求めがちですねー。

そこで、久々に手に取った本がありまして、以前読んだときとはまた違ったところにドはまりしましたので、ちょっと書いてみようかと思い立ちました。

読んだ本はこれです。 

戸村飯店 青春100連発 (文春文庫)

戸村飯店 青春100連発 (文春文庫)

 

簡単にあらすじを追うと、大阪の戸村飯店には一つ違いの兄と弟がおり、兄は要領がいいが店にはなじんでいない。弟は不器用で愛されキャラで店になじんでいる、勝手に自分が店を継ぐという気概を持っている。兄は高校を卒業して家を出て東京に行き、特に興味のない専門学校へ入る。弟は高校生活を満喫するが、店を継ぐことを父親(戸村飯店店主)から反対され、しぶしぶ大学へ進む。

という話を、兄と弟の目線で進めていくもの。で、これがなぜ父と息子の話なのかというと、数年前までの自分でさえあまりそうは思わなかったのですが、話のポイントで出てくる父と子の関係が今の自分にはすごく染みるのですね。特にラスト辺りで出てくる兄と父の関係性には、ハッとさせられるものがあります。自分の父のことを思い出すこともあり、やはり父親というのは大きな存在なのだと考えさせられました。

 

私自身については子どもは2人、上は女の子、下は男の子です。下の男の子は、自分が父を見ていたのと同じように、私を見て育つのだとこれまでよりも痛切に感じた次第です。

しかし、この父、兄、弟という男同士の話を、女性である瀬尾さんが書かれたというのはやはりすごい。柔らかい文体ではあるのですが、なんつー共感力かと驚きです。

また、兄が終章近くである決断をするのですが、その気づきと衝動を与えるのがウルフルズの歌であって、兄はこれを「これは大阪の人間が作った歌だ」と感じ、どうしようもなく家に戻りたくなるわけです。この辺りの描写が素晴らしい。ウルフルズの歌というのは、どうしようもなく家族を今すぐ大切にしたい、どうしようもなく自分の帰る場所を明らかにしてしまう、そういう力があると思います。私自身は九州の出身ですが、やはりそういうことを感じますね。

これが北の方なら、別の歌になるんでしょうね~、その場合は何だろう。

まぁ、つらつらと書いてみましたが、父というのは子どもを生れた時から見守っている。その行為ってやっぱすごく大きいもので、子どもに対する深い洞察をもたらすものなのです。これは自分についてもそう思います。自分とは違う、わからない存在としての子どもという面もあるのですが、部分的にであっても最大の理解者であり、彼を守る人間として存在しているのだなと、走り回る2歳2か月の子どもを見ながら考えたりする今日この頃です。

 ちなみにこのテーマはあと2回ほど書いてみようと思います。次は別の本をネタに書きます。