レビューを書く、ということ

世の中には様々なところでレビューを書くということが多くあります。
これはたぶんワープロ(死語)の登場で文章を書き、推敲することのコストが劇的にさがったこと、それからそれを世に出す場所が(それが誰にも見られないこの場所のようなものであっても)たくさんでてきたということはあるでしょう。つまり、書いて載せる労力が劇的に減ったというわけです。それほどニーズがあるとは思えないですし。レビューに対するニーズがあるような世界であれば、もう少しマシな世界であるでしょう。

かくいう私もここで勝手レビューを書いている一人なわけですが、仕事ではレビューなるものを求められます。私はITエンジニアをやっているので、開発者の書くプログラムをレビューすることがあったり、ドキュメントをレビューすることも多いです。そのあたりは求められてやることで、それなりの品質と誠実さを保ちつつ仕上げることになります。これについては、若手のころから仕事の中で自チームのリーダーのふるまいから学ぶことが多かったように思います。

という前置きをしつつ、、、最近、趣味と仕事の中間くらいのレビューを求められました。知り合いが出した本について、評価は任せる(けども、できれば悪くない評価で)Amazonレビューを書いてほしい、というものです。正直、ここで勝手レビュー書いているような人間ですので、瞬間的に「やりたくないな」と思ったものの、悪くない本ではありそうでしたので本を読んでレビューを書いてみることにしました。

結論から言うと、本はまぁ悪くない、とはいえ最高評価でレビューを書くほどのものでもない、という感じでした。すごく少ない数ですが、Amazonのレビューは私も書いていて、それらは「これは!」というものとか、好きでしょうがない映画とかそういうものでしかないのです。これに追加するとなると、熱量があまりない、他の物と見劣りする、「この人はなぜレビューを書いたのか」と思わせるものになりそうでした。

いろいろと悩んだのですが、「この観点で考えを巡らせるならば、この本の価値は高い」という観点を見つけて、それをベースにレビューを書くことにしました。なので、本の紹介もしてませんし、絶賛もしてません。あくまで自分の考えているこの観点から見て、書かれている内容が非常に興味深い、という体のレビューになっています。まぁ逃げと言えば逃げ、最低限の義理ははたしたうえに自分(と自分がこれまでに書いたレビュー)を裏切ることもなく、うそのないレビューを書くことはできました。

今回の付き合い方が本当に正しかったのかはまぁ微妙なところ、という気がしてますが、どうなんでしょうね。レビューというのは、基本的には作ったものに対して建設的な意見を言い、より良いものにしていくものだと思います。そもそもレビューの意味合いがAmazonのものは違うという気はしますが…。別に他の人が買ってもこれ本当に参考になるのかという気もするし。それにマネジメント領域の本というのは、科学的な知見、本当の意味でのエビデンスがなかなか積みあがらない領域だとも思うので、結局自分にとって好ましい意見を求める傾向にあると思います。これは自戒もこめてそう思うのですが、ただし、好き嫌いを貫くことで同じ考えを持つ同志があつまり、何かを成し遂げることもある。自分にとっての「人としてかくあるべし」があればそれ信じて判断するしかないのでしょう。

ともあれ、人に依頼されたレビューは難しいです。これは学会誌によくある書評でも同じなんじゃないかと思います。同世代の研究者は中堅(40代後半)なので、いろいろ悩みも多そうなのですが…、一度話を聞いてみたい気もします。やっぱり勝手レビューを書いてるくらいがちょうどよいですね、私は。

目黒考二さんのように読みまくって、自分の好みも出しながら書評を書く人生というのも面白いのでしょうが、私はアレを一生通してやり切ることは無理だなと思うので、あくまで憧れとして心にとどめておきたいと思ってます。

9年、そして7年

震災から9年経ちました。

私の父が死んで7年になります。

命日が3/11なので、毎年こうして思いだします。

 

死んでから3年くらいは、いつも父ならばどういう判断をするか、今の自分はどう見えるのだろうかと考えていました。夜、家に歩いているときにふいに寂しさが襲ってきて立ち止まってしまったり、眠れずに朝を迎えることもありました。

7年経ってみて、そういうことはなくなりました。

日常に適応したのか、妻と子どものことに集中することで安定を取り戻したのか、そのあたりは正直よくわかりません。でも、もう「父だったらどう考えるか」と想いを馳せなくても自分の判断は「自分の決断」として責任もってくだせるようになっていて、そもそも私の思考の根底に父が思いはビルトインされているのでいちいち考えなくても大丈夫なはずだと、考えられるようになったのだと思います。

忘れる、というのとは違いますね。

 

でも、今日は、やっぱりつらいなぁ。

 

二十歳のとき、何をしていたか?

またずいぶんと間を空けてしまいました。もう師走ですか。。。

また、いろいろと働く環境が変わってしまいまして、今は一プログラマ、というかアーキテクト兼コンサルタント、という感じのお仕事に移りました。正直、前職(小さいコンサルティングファームにおりました)は、あまり良い会社ではなかったので、ストレスもたまるし、年収もそれほど良くないし、どうしようかと考えてなんとなく転職活動をしてみた結果、現在の会社に移りました。

特に退職エントリは書きませんが(半年ちょっとしかいなかったし)、現在の会社に移ってから1か月少し経って、まったくストレスなく、幸せな日々を送っています。事業自体が自分にとって興味のあるものですし、プログラミングしながら、アーキテクチャや新しい技術に取り組むうえで今後の打ち手とか考えたりしております。いやー、これはね幸せですよ。

というわけで本来のブログの趣旨に戻り、読書日記を書きたいと思います。今回はポパイの特集号「二十歳のとき、何をしていたか?」です。初夏に出たもので、ずいぶん時間が経ってしまいましたが、読んだのは最近なので…。

POPEYE特別編集 二十歳のとき、何をしていたか? (マガジンハウスムック)

POPEYE特別編集 二十歳のとき、何をしていたか? (マガジンハウスムック)

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: マガジンハウス
  • 発売日: 2019/06/24
  • メディア: ムック
 

 さて、有名人に取材して、二十歳のころのことを聞く、といえば立花隆が東大でゼミを持っていたときに、ずばりそのままのテーマを実施し書籍にもなっています。こちらは当時かなり話題になりました。

 

 文庫になっていることは知りませんでした。私は出た当時に買って読んだので、古い版を持ってるはずです。

ゼミの学生と私自身がほぼ同世代なので、当時は面白く読んだ記憶があります。この「当時は」というのが歳を重ねることで身に付けたのだか、失ったのだかよくわからない感覚です。

立花ゼミの「二十歳のころ」は、ゼミの学生が、インタビューしたい相手に対して二十歳のころ、何をしていたか、何を考えていたかを聞くものなのですが、やっぱり人生経験がある人に対して自身が二十歳そこそこの人間が聞きに行くので「教える」「これを伝えておきたい」というインタビュイーの考えが強く出ているのですね。そういう聞き方をしてしまっている、というかどうしても「教えてもらう」スタイルになってしまうのは仕方ありません、学生だから。

出版当時に読んだときには当然自身も学生だったので、違和感はなかったのですが、社会人になってから読んでみると、ちょっとこれはどうなんだ、と感じてしまいます。「なんかモヤっとするなぁ」という感じですね。

この感覚にこたえが見つかったのが、冒頭のポパイの特集本でした。これは、インタビュイーに思い入れだったりゆかりのあるライターが、二十歳のころのことを聞いて書いたものです。人選もより芸能の分野に近くなっているのですが、それよりも根本的に違うことがあります。

こちらは、インタビュイーとインタビュアーが対等なのです。インタビューを咀嚼して書き手が自分の感情も混みで書いているので、正確性はそれほどないと思います。でも、当人どうしが対等なのでフェアな関係性が読み手にも伝わってくる。これは、良質なインタビューには不可欠なものです。

特に岩松了(余談ですが、私はめちゃくちゃファンなので、彼のインタビューが載っているのも購入した大きな理由です)の項では、彼が語るフラフラした自然体の生き様と彼の姿勢を聞き取り、そのまま受け取ってまとめにつなげている。これは何かを学び取りたい、と思っている学生には決してできないものです。「その人のことが知りたい、でも自分は自分で地に足つけて自分の力で生きている存在でもある」という矜持があるように思います。

それってすごく大事だし、好ましい姿勢というか生き方というか、そういうものがあると思うのですね。一方では憧れを持っているものの、他方では自分自身の確立を(必要にせまられて)している途中、というようなバランス。多分それが、大人と子どもを分かつものなのでしょう。

 

何かすごいものを持っている人に出会ったとき、直線的に「そこから学びたい」と思うのはちょっと短絡的というかナイーブな気がします。純粋に感心して相手のことを知りたいと思うのが普通で、それを深めていった先に(自分にとっての)学びはおのずと見えてくるのではないかと思うのです。

納得する言説とはなんなのか

最近見かけたツイートに深く納得するものがありました。

これに深く納得してしまう時点で、ああ、俺って今なんかモヤってるんだなぁ、と思いますが、それはそれとしてこの納得感は私の(不幸なw)境遇だけから来ているわけはない。これはなんなのだろうと考えてしまいました。

 

普遍的な何かを自分が感じているのか、でもそれって自分にとっての普遍性であって、普遍性ってもっとユニバーサルな世界でも通じるような力(力ではないか…真珠の輝きのような、タレントというか)なのではなかろうか、とも思うわけです。つまり、私の納得感というのは、私自身の人生に根ざした私だけの器を充足させるようなもの、という気がしてならんわけです。

 

とすると、結局「私」の話になってしまうのですが、私が当初考えていたほど「私」というのは狭くない、もっと広いものなのかもしれない。少なくとも境遇ではなく、人生全般の経験をベースに納得感を探らなければならない、ただしそれは世間の一般論ではなくて、しょせん自分だけの世界。ただそれが、実はすごく広いんじゃないか、という話です。

 

さて、私の納得感を考えると、キーとなる考え方は「その「場」でもっとも弱い立場の人間であったとして、自分がどう感じるか」というものです。私自身は、常にその見方を手放さないようにしています。

そのポイントからいうと、上記ツイートは(一般的には)弱い立場にフォーカスを当てた俯瞰であって、まずもってその時点で観点としての納得感はあります。そしてその内容については、よく見る光景を見事に表現している、という一点について100パー同意、くらいの納得感があります。

 

他の言説を見ていて、観点は違和感ないが意見が違うという場合と、そもそもなぜこんな見方をするのかという場合は確かにあり、上記ポイントからもそれは考えられるわけですね。

あと、これ以外にも「読む価値ない」「ゴミ」「こんなレイシストは◯◯」とかもあるわけですが、それはさておき。

主に納得感は何を重要視した簡単なのか、その意見の内容、というところから醸成されているところはある、と思います。それ以外にもあるとは思うものの、別のサンプルを用いた分析が必要かなと思います。

 

今回の話で何を言いたかったのか…、一応暫定的な結論は出ましたが、多分途中の自分とはみたいなところが関係ないけど一番書いておきたかったことな気がしますね。

勇気と覚悟、リーダーによる書

酒井穣さんの本はよく読みます。

勝手に、人生の先輩というか、師匠というか、ヒーローというか、この時代を照らして生きる方向を指し示してくれる存在として、尊敬しています。

会ったこともない、本を読んだことしかないはずなのですが、その本で語っている誠実さ、勇気と覚悟に毎度心を打たれているのです。

なんちゅうか、ロールモデルと言ってしまうと畏れ多いというか…、まぁそんな感じで仰ぎ見ている方です。

 

その酒井さんが新刊を出されまして、タイトルは「自己啓発をやめて哲学をはじめよう」というものです。

 

自己啓発をやめて哲学をはじめよう

自己啓発をやめて哲学をはじめよう

 

 

一気読みでした。

 

今回も誠実で、勇気と覚悟を強く感じさせる本でした。これはもう本を読んでいただければと思います。

それにしても何が酒井さんの本をこれほど魅力あるものにしているのか、それが自分には不思議ではあります。

 

でも、心の中ではなんとなく理由はわかっていて、それを言葉にするのはその気持ちに相応しくない、という感じはあるのです。

なにか物事に耽る時に散歩する道、聴いてしまう音楽、思い出す景色、そういうものを語ることに躊躇いを覚えるのと同じような感じなのかもしれないですね。

 

ともあれ、この素晴らしい本についてはたくさんの人に読んでいただきたい、と願っております。

サイクルの終焉

レアル・ マドリーがノックアウトステージ1回戦でアヤックスに惨敗…、 そうですね、まさに惨敗しました。 いろいろな分析がされていますし、 バルサスタイルの源流ともいうべきアヤックスによって連覇を止め られたことに歴史的な意味を見出す俯瞰的な論考もありました。
とはいえ目の前で起こったことを見たときに感じるのは、 ひとつひとつの局面ではそれほど大きく劣っていたわけではないのに、少しずつ一歩足りないという状況が重なり、スコア上の大敗がもたらされたという事実が示す「サイクルの終焉」の残酷さです。 残酷なまでにはっきりと数字に出てしまう( ときには目に見えている実情よりもはるかにはっきりと) フットボールというのは、 ある種の人間には感知しえない世界の真実を映し出すものなのかも しれないなぁと思ったりもします。
戦術的なことはまた戸田和幸氏による解説がメディアに出てくるはずですが…、 パッと見た感じで言うと決定的な局面が攻守ともによく発生していたので、ここ3年ほど盤石であったレアル・ マドリーの中盤がその力を活かせるような戦術になっていないのだろうなと、単純に思いました。 3人で構成されるマドリーの中盤に対して、 アヤックスの前か横かの選手が入ってきて数的優位を作り攻撃のチャンスを作っていたのかなぁという感じです。 通常のマドリーだと、セルヒオ・ラモスは前にも横にも広くポジションとるのでそういうアクションでバランスをとっていたはずですが、 彼がいなかったのは大きかったと思います( ドキュメンタリーの撮影していたという噂ですが)。
ともあれ、 結果が示しているのは戦術云々ではなく現メンバではヨーロッパの王座をとることはできなくなった、組織として衰えてしまった、 ということです。その面から言うと、クリスティアーノロナウドジダンがいなくなったというのは、 非常に大きかったんだなと、後知恵では感じてしまいます。
特にロナウドは「自分の重要性をマドリーはわかっていない」 と話していたようですが、 これは非常にダイレクトに事実を語っていたと言えるでしょう。 すなわちナルシシズムから意見を表明していただけではなく、「 ゴールを決めることができる選手の重要性を、 クラブは本当の意味でわかっていない」 という意見表明だったわけです。 自分自身がそういうスコアリングマシーンになることで、 他メンバにそこまでのプロセスを精度高く遂行することを求めた。 それを継続するためには彼自身がマシーンとしての精度・ エネルギーを落とさずに走りきる必要があり、 そのことは傍で見ている人に理解できないほど大変なのだ、 ということなんですね。
このあたりのロナウドのプロフェッショナリズムが私はすごく好きなんですが、それはエゴと隣り合わせであるし、 あるときはエゴそのものになってしまうこともあると思います。 そういう選手のエゴが激しくぶつかり合って場の緊張感を高めパワーを放出していくのがマドリーのやり方で、 その方向性を正しい方向に向けられるのがジダンだったと思うのですが…。そもそも場のパワー自体が減退したのではないか、 そして(ソラーリでは) 正しい方向に向けることもままならなかったのではないかという気 がしてなりません。
今後は新しい監督・ 新しい選手のチームになっていくのでしょうが、核となる選手( ある種のエゴをもちつつ、 他の選手を巻き込んでチームを進める熱量をもった選手) が誰になるのか、 その集団がどういうスタイルでヨーロッパの覇権を取り戻すのか( 取り戻すことに疑いはありません)を見ていきたいなと思います。


同様にサイクルの終焉を迎えているのは、 バルセロナだと思いますが、 こちらははっきりとその事実が見えてない状況(兆候はいくらでもありますが)です。ただ、これも世界最高の選手がいる間はその得点力に隠れて見えないけれ ども、彼がいなくなったタイミングでは、 もう手の施しようがないほどになっている気がします。 次のメッシなんてどこにもいないわけで、 バルセロナはその哲学に基づいたスタイルに早く回帰しなければいけないわけですが、まだその機運は見えない。 リーガを失わなければ、 それをなすことは難しいのかもしれないですね。


人間というのはやはり変わることを恐れるものです。 バルセロナというクラブは、変えてはいけないものをわかっている分だけライバルよりも有利なはずですが、それでも今手の中にあるもの、自らの強みに見えてしまっているであろう理念には背く今のスタイルを手放すことができない。


勇気が試されている、そういう事でしょうか。

神よ。

そんなわけで約束どおり(?)キンシオについて

キンシオという神奈川ローカルの番組があります。
キン・ シオタニ氏が関東近辺の土地をいろいろなお題に沿って歩く、 という番組です。
これが月曜夜の23時からテレビ神奈川で放送されてまして、 ここ最近では毎週欠かさず見ている唯一のTV番組です。 放送されている時間帯が良い( 一人でリラックスして見ることができる)こと、 歩く場所がかなり都市郊外(田舎)である、 歴史蘊蓄がいろいろと織り交ぜられている、 音楽が良いなどがあるでしょうか。
この番組で放送した企画で最初にDVD化されたのは、 国道16号を行くものですが、NHKの「72時間」 にもありますが結構長い記録になっています。 それにキンシオでは、 その土地の人とかではなくダイレクトにその土地を知る・ 感じるというところが大きな特徴で、 その面でもNHKの72時間とはだいぶ趣を異にするものなのかも しれません。(つーのは、私はまだ見てないから…すみません)
あとは音楽ですかねー。田舎の風景の中を歩いて、 その回の放送を終わらせる場所を探してそこに到達する一連の流れ (番組終盤)には、BeatlesのLet it beがだいたい流れているのですが、 これがすごく侘しくも懐かしい気持ちにさせてくれるのです。 小学生だった自分が友達と遊んでいるところで、 だんだんと夕方になりそろそろ家に帰らなければいけない、 そのときの気持ちを非常にくっきりと思い出して浸ってしまいます 。
書いていて気づきましたが、 こういう子供のころの気持ちに浸るというのが、 自分にとって毎週見てしまう理由なのでしょう。見た翌日( 火曜日)は、「昨日は楽しかった、 最後は帰りたくないような帰りたいような侘しい気持ちになった。 今日も頑張って遊んでみよう」という気持ちになって、 週に一度の安堵があるのだなぁと思い知った所存です。
関東圏であれば見ることができるようですので、 皆さんも一度視聴いただけると子どものころの気持ちを味わえるか もしれませんよー。